第9話 鐘撞きさん
2026.10.19
書斎の本棚のいちばん下に、段ボールが七つ並んでいた。
九月二十六日、土曜日の朝。千尋さんは夜勤明けで、下の客間で寝ていた。アリアは私の部屋から出ないと約束して、チラシの裏に「さ」を書いていた。
柳さんは、最終章を誰にも見せなかったと言った。葛西さんも同じことを言った。でも、あの人が誰にも何も言わなかったとは限らない。人に見せないことと、人に言わないことは違う。
段ボールの側面には、マジックで年が書いてあった。二〇一五から二〇二六まで。中は手紙だった。封筒の束が、輪ゴムで年ごとにまとめてある。ファンレターだ。封筒の一通ずつに、便箋が一枚、クリップで留めてあった。鉛筆の字だった。あの人の字だった。
返事の下書きだった。
あの人は、ファンレターに返事を書いていた。下書きをして、清書して、送って、下書きをとっておいた。十一年分。
いちばん上の一枚だけ、読んだ。知らない中学生の名前が書いてあった。部活で足を痛めたという手紙への返事だった。「無理をしないでください。走れない時期に読んだ本は、あとで効いてきます」。消しゴムで二回消して、書き直した跡があった。
私は、その一枚を封筒に戻した。続きは読まなかった。
私は床に座って、封筒の差出人を数えた。同じ名前が何度も出てくる人がいた。三回、五回。いちばん多いのは、四十一通だった。差出人の欄には、名前の横に小さく「鐘撞き」と書いてあった。本名は日野さくら。住所は国分寺だった。
一通目は二〇一五年の秋。字が大きくて、まっすぐだった。「入院しています。一巻を三回読みました」。最後の一通は、今年の七月。字は小さくなって、整っていた。名前の下に、市立図書館の名前と「司書になりました」と書いてあったのは、三年前の束からだった。
七月の手紙には、こう書いてあった。
「最終巻、どうか先生の思うとおりに書いてください。アリアがどうなっても、私は受け取ります」
その封筒にも、鉛筆の下書きが留めてあった。下書きは三行目で終わっていた。
「最終巻で、僕は」
その先は、白かった。送った返事には、続きが書いてあるはずだった。
その日の夕方、図書館に電話をした。日野さんは電話口で長く黙って、それから、ゆっくり言った。
「先生の、娘さん」
「手紙を見ました。あの人が最後に何を書いたか、見せてもらえませんか」
日野さんは、日曜の午後なら、と言った。
九月二十七日、日曜日。国分寺の市立図書館は、駅から歩いて十分の、白い二階建てだった。
アリアはゴルフバッグを肩にかけて、閲覧室の入口で止まった。棚が奥まで続いていた。全部が本だった。アリアは長く棚を見て、それから、私の顔を見た。
「これが全部、誰かが書いたものですか」
「そう」
アリアは何も言わずに、バッグのフードに手を置いた。
日野さんは、二階の小さな談話室で待っていた。
二十五くらいの女の人だった。肩までの黒い髪を、耳の後ろで留めていた。紺のエプロンに、図書館の名札。机の上に、封筒の束が置いてあった。私の家の段ボールにあったのと同じくらいの厚さだった。
日野さんは立って、私に頭を下げた。それからアリアを見た。目が、左の頬で止まった。日野さんは少し驚いた顔をして、それから、笑った。
「アリアの格好、似合いますね」
アリアは日野さんを見返した。何か言いかけて、私を見た。
「親戚です。ナナアリが好きで」
私が言った。日野さんは、そうですか、とゆっくり言った。それ以上、訊かなかった。
「十四のとき、長く入院していました」
日野さんは封筒を一通ずつ机に並べながら、話した。
「点滴の針が怖くて、夜、眠れなくて。母が売店で一巻を買ってきてくれて、次の週に二巻も。二巻で、アリアが小さいころに夜鳴きにお父さんを殺されていたって分かって、それでも剣を取るところで、泣きました。手紙を書いたら、先生から返事が来たんです。便箋、五枚でした」
アリアが、日野さんを見ていた。
「その剣士は、あなたの、役に立ちましたか」
日野さんは手を止めて、アリアを見た。それから、少し考えて、うなずいた。
「はい。とても」
アリアは何も言わなかった。膝の上で、両手を組んだ。
日野さんは一通目の便箋を出して、私のほうに向けた。
ペンの字だった。下書きの鉛筆の字と、同じ形だった。
「お手紙ありがとう。本になってから、アリアのことで手紙をくれたのは、あなたが最初です」
日野さんは、その次の行を指で押さえた。
「アリアの最初の読者は、六歳の女の子でした」
私はその行を、二回読んだ。
六歳の女の子。誰のことか、日野さんは知らなかった。
「十一年、ずっと気になっていました。一度、誰のことですかって訊いたんです。お返事には、書いてありませんでした」
私は便箋から目を上げなかった。
十一年前、私は六歳だった。
覚えていることは、何もなかった。あの人が私に何かを読んでくれた記憶は、一つもない。覚えているのは、その年に母が出ていったことと、あの人が夜に起きて昼に寝るようになったことだけだった。
日野さんは、最後の一通を出した。八月の消印だった。
「これが、先生からの最後のお手紙です。七月に、最終巻のことを書いたら、お返事がきて」
便箋は三枚だった。図書館の仕事のこと。日野さんの体のこと。季節のこと。私の知らない、ていねいな言葉で、長く書いてあった。私は、あの人からこんなに長い文章をもらったことがない。冷蔵庫に貼ってあった「夕飯、温めて」より長いものは。
三枚目の終わりに、その行はあった。
「最終巻で、僕はいちばん大事なものを手放します。あなたには、それを先に言っておきたかった」
私は、その行で止まった。
「何のことか、書いていないんです」
日野さんが言った。
「先生らしいと思いました。私は、何でも受け取るつもりです。七月にも、そう書きました」
アリアが、私の横で便箋を見ていた。読めない字を、見ていた。
「何と、書いてあるのですか」
私は答えなかった。日野さんが、ゆっくり読んだ。アリアは聞いて、黙った。膝の上の手を、ほどかなかった。
帰りの電車は、四時十二分だった。日没まで一時間と少し。
アリアはドアの横に立って、膝で揺れを受けていた。バッグのフードに置いた手は、木曜より少しゆるんでいた。
「ことりさん」
「何」
「いちばん大事なもの、というのは」
アリアは窓の外を見ていた。
「言わなくていい」
私が先に言った。アリアは少し黙って、それから、窓に向かったまま言った。
「ことりさんが聞きたくないなら、今は言いません。でも、私は何も知らずにいるのではありません。鐘のことは、エルセンにいたときから知っています」
私は答えなかった。
柳さんは、喪失の話になると言った。あの人は、いちばん大事なものを手放すと書いた。七つ目の鐘を鳴らした者は、この世界から消える。鳴らせるのは、鐘守の血を引く者だけ。そしてアリアは、鐘のことは知っている、と言った。
並べないようにしていたものが、もう並んでいた。
人の話から寄せ集めるのは、もうやめる。あの人が何を決めたのかは、あの人のメモに書いてある。end を開ける。今夜。
パスワードの手がかりは、誕生日でも題名でもない気がした。
六歳の女の子。あの人の最初の読者。
十一年前、私は六歳だった。その子は、何を読んだのか。あの家で読んだのか。私だったのか。分かっているのは、手紙の一行だけだった。それなのに、その一行を見たときから、手が冷たかった。
腕時計を見た。四時二十一分。脈は九十四。走ってもいないのに、走ったあとの数だった。
武蔵小金井に着くまで、私は六歳の夜を、一つでも思い出そうとした。
何も出てこなかった。
忘れたのなら、思い出せるかもしれない。