第10話 end
2026.10.19
家に着いたのは、四時五十一分だった。
千尋さんは今夜も夜勤で、帰りは明日の朝になる。台所のテーブルに「カレー、鍋」とメモがあった。私は鍋の蓋を開けて、閉めた。
日没は五時三十二分。二十分前に、アリアは書斎の入口に立った。私はその一歩うしろの廊下で、右手をポケットに入れた。
影は五時四十分に出た。四匹だった。一匹目が鳴いて、書斎と廊下の電灯が消えた。画面とルクスの光だけになった。二匹がアリアの左右を抜けようとして、アリアは右の一匹を斬り、返す刃で左を斬った。三匹目は床を低く来た。アリアは剣先を下ろして、敷居の手前でそれを突いた。四匹目は天井のほうから、私のポケットに向かって落ちてきた。アリアは私の前に半歩出て、それを斬った。
「四つ」
アリアが数えた。四匹とも、床に落ちる前に煙になった。電灯は、六十一数えたところで戻った。
「残りは、六つです」
「うん」
私はポケットから手を出した。指が冷たかった。
カレーを温めて、二人で食べた。アリアは二回おかわりをした。私は一杯を半分残した。
「今夜、end を開ける」
私が言うと、アリアはスプーンを置いた。
「いつ、ですか」
「十時の計測のあと」
「なぜ、あとなのですか」
「先に開けたら、たぶん測れなくなる」
アリアはそれ以上訊かなかった。私の皿の残りを見て、それから、自分の皿を流しに運んだ。蛇口のレバーを上げるとき、アリアはもう手を止めない。
八時すぎに、私は自分の部屋から一巻を持ってきた。ゆずに借りたまま、掟のページしか開いていない一巻だった。
最初の読者が最初に読んだのなら、それは一巻の中身のはずだった。パスワードの手がかりがあるとしたら、ここしかない。
書斎の丸椅子に座って、一ページ目を開いた。アリアは入口の柱に背中をつけて、ひらがなの紙を膝に置いていた。
一行目は、こうだった。
『鐘の国エルセンの夜は、長い。』
『鐘がひとつ鳴るたびに、夜は一段、明けていく。』
ページの最後の行まで読んだ。次の行は、ページをめくらないと見えなかった。
めくる前に、私の頭の中で、次の文が読まれた。
『七つ目の鐘の音を、まだ誰も聞いたことがない。』
男の人の声だった。低くて、読点のところで止まる声だった。
私はページをめくった。
『七つ目の鐘の音を、まだ誰も聞いたことがない。』
同じだった。
私は手のひらで次のページを隠した。頭の中で、次の行を待った。来た。手をずらして、確かめた。合っていた。もう一回やった。合っていた。三回やって、三回合った。
誰かが、私の耳にこれを読んだのだ。
思い出したのは、部屋の天井だった。
今の私の部屋の天井。豆電球がついていて、壁にオレンジの影ができていた。布団が重かった。冬だったと思う。
ベッドの横に、あの人が座っていた。顔は覚えていない。覚えているのは手だった。紙の束を持っていて、左上が黒いクリップで留めてあった。
あの人は、それを読んでいた。読点で止まって、また読んだ。私はたぶん、途中で何か訊いた。何を訊いたのかは、覚えていない。あの人は、紙をめくる手を止めて、答えた。
それから、こう言った。
「続きは、明日な」
覚えているのは、それだけだった。
母が出ていったのは、その冬の初めだった。まだ本になる前の紙だった。母のいなくなった家で、あの人は書いて、書いたものを私に読んでいた。
その明日がいくつあったのかは、分からない。本が出てから、あの人は夜に起きて、昼に寝るようになった。私の部屋に、夜にあの人が来た記憶は、それより後には一つもない。
腕時計を見た。八時四十二分。脈は百八だった。座っているのに、また走ったあとの数だった。
アリアが入口から私を見ていた。
「ことりさん。顔が、白いです」
「平気」
私は一巻を閉じた。
机の向こうに、あの人の椅子があった。救急の人が引いた角度のまま、まだ斜めになっている。あの人はあの椅子で、夜に書いていた。書き終わった紙を、私の部屋に持ってきた夜があった。それが何夜だったのか、私には数えられない。
「最初の読者、たぶん私だった」
アリアは何も言わなかった。言葉の意味が分からなかったのかもしれない。図書館で日野さんの便箋を見ていたときと、同じ目をしていた。
十時に、点滅を測った。十回で、十四秒三五。一分に、四十二回より少し少ない。メモ帳に書いた。
それから、「資料」の奥の「end」を開いた。パスワードの欄が出た。
三回間違えた日から、十日たっていた。あのとき止めたのは、何回まで間違えていいのか分からなかったからだ。四回目で中身が消える仕組みなら、これで終わる。
私は入口のアリアを見た。
「開けるとこ、見る?」
アリアは少し黙った。それから、紙を床に置いて立ち上がった。
「見ます。私のことが書いてあるなら、見ます」
アリアは私の右、一歩うしろに立った。私の手と、キーボードが見える場所だった。私がこの人の右手を上げさせた日から、アリアはそこに立つ。
私は打った。
k、o、t、o、r、i。
エンターの前で、指が止まった。
ほかの候補も考えた。私の誕生日。「kotori」のあとに数字をつけたもの。母の名前。どれも、あの人が選びそうには思えなかった。名前だけで違ったら、五回目に入れるものは、もう私にはない。
あの人が私の名前をパスワードにする理由は、一つしか思いつかなかった。この話を最初に聞いたのが私だから。最初の読者の名前の奥に、最後をしまっておいた。
そうだとしたら、あの人はこの話を、私に向けて書いていたのかもしれない。最初の夜だけじゃなく、そのあともずっと。
そう思いたくなる自分が、嫌だった。そう思ったら、大会に一度も来なかった十一年まで、許してしまいそうになる。
押した。
フォルダが開いた。
中には、ファイルが一つしかなかった。「最終章メモ」。最後に保存されたのは、今年の八月十九日だった。日野さんへの最後の手紙と、同じ月だった。
開いた。
短かった。九万字のあとに来るはずのものが、画面の半分もなかった。箇条書きで、四行。あの人の打った字だった。
・塔の頂上。ノクスの手。
・カイの言葉(まだ)
・アリア、七つ目の鐘を鳴らして死ぬ。カイの腕の中で。
・夜明け。
三行目で、私の手が止まった。
キーボードの上で、指が浮いたまま動かなかった。
柳さんの、喪失。日野さんへの手紙の、いちばん大事なもの。掟の、この世界から消える。並べないようにしていたものに、あの人の字で答えが書いてあった。
消える、ではなかった。死ぬ、だった。
「ことりさん」
うしろで、アリアが言った。
「何と書いてあるのですか」
私は振り向かなかった。
アリアは、この字が読めない。私が「何も書いてない」と言えば、アリアの中では何も書いてないことになる。
最初の日に、私はこの人の背中のうしろで、この人のことを打った。この人が知らないうちに、この人の体のことを決めた。今ごまかせば、同じことをもう一回することになる。字を習いはじめたのは、自分のことを自分の目で読むためだ、とアリアは言った。
それに、アリアは電車で言った。何も知らずにいるのではありません、と。
私は画面を見たまま、声に出して読んだ。
「アリア、七つ目の鐘を鳴らして死ぬ。カイの腕の中で」
声は、思ったより普通に出た。
うしろで、アリアが息を吸う音がした。吐く音は、しばらく聞こえなかった。
「カイの、腕の中で」
アリアは、そこだけをくり返した。