第8話 後継者
2026.10.19
九月二十四日、木曜日。私は五時間目のあとで早退した。
日没は五時三十六分。神保町から家までは一時間かかる。六時間目まで出てからアリアを連れていくと、柳という人と話せるのは三十分もない。保健室の先生は、忌引き明けの私の顔を見て、何も訊かずに判を押した。
家に寄ると、アリアはゴルフバッグを肩にかけて玄関に立っていた。
「私も行きます。私の結末の話なら、私も聞きます」
武蔵小金井から中央線に乗った。
アリアはドアの横に立って、足を肩幅に開いた。電車が動きだすと、膝を少し曲げた。揺れに合わせて体を沈め、手すりには触らなかった。窓の外の家並みが流れていくのを、瞬きを減らして見ていた。
「馬は、どこにいるのですか」
「いない。電気で動いてる」
「灯と同じものですか」
「同じ。……たぶん」
アリアはそれ以上訊かなかった。御茶ノ水で降りるまで、バッグのフードから手を離さなかった。
白鷺書房のビルは、神保町の古本屋の並ぶ通りから一本入ったところにあった。一階の受付に葛西さんが降りてきていた。
「ことりちゃん。……その子も来たんか」
葛西さんはアリアを見て、ガムを噛むのを一回止めた。
「親戚の子、ってことでええな。柳くんには、それ以上言わへん」
三階の小さな会議室に通された。長い机の向こうに男の人が一人座っていた。
痩せていて、座っていても背が高いのが分かった。黒い薄手のタートルネックに、銀縁の眼鏡。年は三十くらいに見えた。机の上に、付箋だらけの文庫本が十一冊、背の順に並べてあった。
「柳です。このたびは、ご愁傷さまでした」
静かな声だった。
「真壁ことりです」
私は腕時計を見た。三時五十二分。四時四十分にはここを出る。
「時間がないので、訊きたいことだけ訊きます。あの人の最終巻の結末、知ってますか」
「大部分は。十二巻のプロットは、塔に入るところまで聞いています」
「最後は」
「最終章だけは、聞いていない」
「メモはある、と冬木さんは言っていました。最終章のことは全部そこに書いてある。でも、見せてもらえなかった。まだ決めきれていないところがある、と」
あの人のPCの中の、鍵のかかったフォルダの名前が浮かんだ。end。
「葛西さんには、結末は決まってるって言ってたって」
「僕が聞いたのは、去年の春です。そのあとで決めたのかもしれない」
「ただ、一つだけ。最終巻は喪失の話になる。冬木さんは、そう言っていました」
「喪失って、何がなくなるの」
「それは、言わなかった」
柳さんは私を見た。
「でも、十一巻まで読んでいれば、だいたい見当はつく。君も、そうだろう」
私は答えなかった。
柳さんの目が、少し細くなった。
「……読んでいないのか」
「読んでません」
葛西さんが、ガムを噛むのをやめた。
柳さんは怒らなかった。一巻を手に取って、表紙を見た。
「それなら、僕からは言わない。読んでいない人に九巻から先の話をするのは、冬木さんに対して失礼だ」
「読んでなくても、知る理由はあります。時間がないんです」
「なぜ」
「十月末というのは、会社の都合だ。君の都合じゃない。読む時間なら、君にはいくらでもある」
私は口を開けて、閉じた。
時間がない理由なら、ある。毎晩、画面から影が出て、私の右手を狙う。隣に座っている人は、あの人の本の中から出てきた。
どれも、この部屋では言えなかった。そして、言えない理由のほかに、私には何もなかった。十一冊のうち一冊も通して読んでいない娘が、四年あの人の原稿を整理した人に、教えろと言っている。
「それに、十二巻の原稿は塔の頂上まで書いてある。九万字だと、葛西さんから聞いた。君の家のPCにあるはずだ。僕が知っていることの大半は、そこにある。僕が話すより、読むほうが正確だ」
あの画面の、カーソルより上。私は、最後の一行しか読んでいなかった。
柳さんは本題に入った。
「お願いがあります。冬木さんのPCにあるメモを、見せてほしい。コピーでいい。僕は最終章を、冬木さんの意図どおりに書きたい」
「代筆の話は、まだ決めてません」
「分かっています。十一年待った読者がいる。四年、冬木さんの原稿の束を整理しました。冬木さんは一度決めたことを、迷って変える人じゃなかった。決めた結末があるなら、僕はそのとおりに書く。作者の意図に従うのが、残された者の仕事だ」
あのPCに、この人を近づけることはできなかった。この人が打っても、灰色になるだけかもしれない。でも、ならなかったら。それに、メモを見せるには、まず私が開けなければならない。
「渡しません。あの人の机のものは、まだ誰にも」
柳さんは少し黙って、うなずいた。
「分かりました。気が変わったら、葛西さんに」
アリアは椅子に浅く座って、両手を膝に置いていた。「喪失」と柳さんが言ったときも、顔を動かさなかった。ただ、膝の上の手の指が、ジャージの布をつかんでいた。
そのアリアが、会議室に入ってから初めて口を開いた。
「一つだけ、お訊きしてもいいですか」
「塔に来る前の晩、カイは、全部終わったら言いたいことがある、と言いました。何を言うつもりだったのですか」
アリアは柳さんではなく、机の上の十一冊を見ていた。
「十一巻の最後の台詞だね。……それも、最終章だ。僕は聞いていない」
「……そうですか」
アリアは、それ以上訊かなかった。膝の上の指が、布を放した。
柳さんは、そこで初めてアリアの顔をまっすぐ見た。左の頬で、目が止まった。
「君は——」
柳さんは言いかけて、口を閉じた。
「いや。失礼。知っている絵に、似ていたので」
葛西さんが、横から言った。
「ことりちゃんの親戚の子や。ナナアリが好きで、ようアリアの格好してんねん」
柳さんはそれ以上訊かなかった。でも、席を立つまで、二回、アリアのほうを見た。
ビルを出たのは四時三十八分だった。
御茶ノ水まで歩くあいだ、アリアは何も言わなかった。
アリアは鐘守だ。七つ目の鐘を鳴らせるのは、鐘守の血を引く者だけだと、アリアは先週の土曜に言った。七つ目の鐘を鳴らした者は、この世界から消える。それは、ゆずの本で私が読んだ。
その二つを、私は並べなかった。並べたら、次に訊くことが決まってしまう。
信号で止まったとき、私は別のことを訊いた。
「カイが言いたいことって、あんたは見当ついてるの」
アリアは少し黙った。
「分かりません。あの人は、言う前に止まりました。口を開けたまま」
「だから、聞きたいのです」
信号が青になった。アリアは先に歩きだした。
「ことりさん」
改札の前で、アリアが言った。
「柳さんは、お——」
アリアは言葉を止めた。私の顔を見て、言いなおした。
「あの方は、ことりさんのお父上のことを、よく知っている人ですね」
「四年いたって」
「はい。あの方は、本の中の私を、ことりさんより知っています」
それは事実だった。私は何も言わずに改札を通った。
家に着いたのは五時二十九分だった。日没の七分前。アリアはそのまま二階に上がって、書斎の入口に立った。私はその一歩うしろ、廊下に立って、右手をポケットに入れた。
影は四匹出た。
一匹目と二匹目は、画面から続けて床に落ちた。アリアは入口の内側に一歩踏みこんで、二つ斬った。三匹目が鳴いて、書斎と廊下の電灯が消えた。画面の光とルクスの白い光だけが残った。
三匹目はアリアの左、本棚の側を。四匹目は右、机の下を這った。二匹とも、アリアではなく、廊下の私を見ていた。
アリアは左の一匹を斬り、振り向きざまに、右の一匹を戸口の敷居の上で斬った。四匹目の煙が、私の靴下のつま先にかかった。
ゆうべまで、影は書斎の中で斬られていた。今夜、初めて一匹が敷居まで来た。
電灯が戻るまで、私は数えた。五十八。
「あと六です」
アリアは剣を下げて言った。
夜、十時。点滅は十回で十三秒〇九。一分に四十六回。
私は丸椅子に座って、end のパスワードの窓を開いた。先週、三回まちがえた。何回で開かなくなるのか、私は知らない。最終章のことが全部書いてあるメモを、あの人はどんな言葉で閉じたのか。
私は窓を閉じて、12.txt に戻った。
私はマウスのホイールを、一回だけ上に回した。知らない文が下りてきた。塔の階段の話だった。目が、一行に止まった。
――カイは何か言いかけて、やめた。アリアは振り返らなかった。
昼間、アリアが柳さんに訊いたことだった。私はその一行だけを読んで、目を離した。
右端のスクロールバーのつまみは爪の先くらいで、いちばん下に張りついていた。その上に、九万字。
私はホイールを戻した。
部屋に戻ると、アリアは床に座って、チラシの裏に字を書いていた。あ、り、あ、のあとに、きのう教えた「か」と「い」が並んでいた。
「これで、カイですか」
「ほんとは別の字。カタカナっていう、もう一種類のほう。でも、ひらがなでも読める」
アリアは「かい」の二文字を、指でなぞった。それから、紙を半分に折って、膝の下に入れた。