confabulations

未完のヒロイン

第7話 それは、書かれていません

2026.10.19

九月二十二日、火曜日。昼に米びつを開けると、底が見えていた。

千尋さんが葬式の前に買っておいた五キロの米は、八日でなくなった。半分以上はアリアが食べた。連休は明日まで続いて、学校は木曜からだった。千尋さんは連休のあいだ自分のアパートにいて、毎晩九時に電話をくれた。

「買い物に行く。米、重いから持って」

台所の入口に立っていたアリアは、うなずいてから、腰の剣を見た。

「これは置いていけません」

「そのまま外に出たら、通報される」

「誓いました。生涯この剣を手放さない、と」

私は物置から父のゴルフバッグを出した。葛西さんに誘われて一度だけ行って、それきりだったものだ。クラブは全部抜いて、剣を入れた。柄は上に出して、フードをかぶせた。

アリアは玄関でバッグを肩にかけ、フードの下から剣を三回抜いて、三回戻した。四回目はしなかった。

「これなら、間に合います」

父の紺のトレーナーに、父のジャージ。袖は二回折ってある。その背中にゴルフバッグ。コンビニまで、歩いて八分だった。


家を出て最初の角で、車が横を通った。アリアの右手がフードの下に入った。

「車。前にも言った」

「分かっています」

分かっていても、手は動いた。二台目でも、三台目でも動いた。トラックのときは、半歩、私の前に出た。コンビニに着くまでに、七回だった。

自動ドアが開くと、アリアは入口で止まった。誰も触っていないのに、戸が開いたからだ。アリアは一歩下がって戸を見て、それから中に入った。

米の袋をかごに入れたところで、私は訊いた。

「で、何が好きなの」

アリアは棚を見ていた。

「何が、とは」

「食べるもの。あんた、出したもの全部食べるじゃん。たまには好きなもの買う」

アリアは答えなかった。口を開けて、閉じた。棚のパンを見て、おにぎりを見て、私を見た。

その顔は、木曜の夕方に見たことがあった。お母さんの名前を訊いたときと同じだった。

「……それは」

少し間があった。

「それは、書かれていません」

私は、かごを持ちかえた。

「は?」

アリアは棚のほうを向いたまま言った。声は低かったが、震えてはいなかった。

「今、探しました。母のときと同じです。何もありません。焚き火の夜は、ありました。ゆずさんの本に、書いてあった夜です」

木曜に、私が見当をつけて、口にしなかったことだった。アリアは自分で、同じところに来ていた。

「だから、そう言うことにします。思い出せない、とは言いません。忘れたのなら、思い出せるかもしれないからです」

私はスマホを出して、ゆずに送った。「アリアの好物って、本に書いてある?」。

返事は四十秒で来た。

「公式にはないんだよ! 二巻に『アリアはよく食べた』ってあるだけ。何を食べたかは書いてないの。ファンの間ではパン派と肉派がずっと揉めてて」

続きが三つ来た。私は画面をアリアに向けかけて、やめた。アリアは字が読めない。

「書いてないって。よく食べた、だけ」

アリアはうなずいた。泣きも、黙りこみもしなかった。剣のフードに手を置いて、パンの棚の前に立っていた。

私はその言い方が、嫌だった。書かれていない、という言い方は、書いた人がいることを前提にしている。そして、その人はもういない。

「じゃあ、今決めれば」

アリアがこっちを見た。

「何でもいい。一個選んで。好きかどうかは、食べてから決めれば」


アリアはアイスの棚の前で止まった。ガラスの扉の向こうに、色のついた袋が並んでいた。

「これは、何ですか」

「アイス。凍らせた甘いもの。冷たいから、少しずつ食べる」

アリアは扉に指を近づけて、冷たさに気づいて、引っこめた。それから袋を一つずつ見た。手には取らなかった。

待つのは苦手だった。数えていれば、待てる。私は腕時計のストップウォッチを押した。

アリアは一つに手を伸ばしかけて、止めた。私の顔を見た。私は何も言わなかった。アリアは手を戻して、棚の端まで歩いて、また戻ってきた。十五分で、私は米のかごを床に置いた。

二十分を過ぎたところで、私は言った。

「どれでもいいって言ったでしょ」

「どれでもいいから、選べません」

アリアは棚を見たまま答えた。

「剣を取ったのは、父が殺されたからです。どれを取っても誰も困らないものを、選んだことがありません」

二十九分で、アリアは扉を開けた。冷気が床に落ちた。三十一分十二秒で、アリアの手に小豆色の細長い袋があった。

「これにします」

あずきバーだった。

「なんで」

「分かりません。これにしようと思いました」

アリアは袋を両手で持って、私を見下ろした。

「それで、いいのですか」

「いいでしょ。あんたが選んだんだから」

私はストップウォッチを止めて、レジに行った。米と、あずきバーが一本。店員は何も言わなかった。


帰り道、アリアは米の袋を片手で持って、もう片方の手であずきバーをかじろうとした。歯が止まった。もう一度かじった。止まった。

「固い。だから少しずつって言った」

アリアは少しずつ舐めはじめた。三つ目の角で、立ち止まった。

「冷たくて、甘いです。豆の味がします」

「で、好きなの」

アリアは棒を見た。

「……まだ、分かりません」

家に着くまで、車は四台通った。手がフードにいったのは、三回だった。

門の前で、アリアは足を止めた。棒には、まだ半分残っていた。

「ことりさん。字を、教えてください」

「なんで」

「私について何が書かれたのか、自分の目で読みたいのです。ゆずさんや、ことりさんの口から聞くのではなく」

アリアは棒を持ったまま、門の花束を見ていた。

「好物が書かれていないことも、私は人に訊いて知りました。私のことなのに」

教えるのは面倒だった。ひらがなだけで四十六ある。それに、アリアが読みたいのは、あの人の本だ。

でも、読めないなら、誰かが読んで聞かせることになる。それはたぶん、私だった。あの人の文章を、私の声で読む。それよりは、字を教えるほうがましだった。

「ひらがなだけ。漢字は無理」

「はい」

「今日は三つ」


夕方、私はチラシの裏に、大きく三つの字を書いた。

あ、り、あ。

「アリア。あんたの名前」

アリアは紙を両手で持って、長く見ていた。それから、最初の字と最後の字を、指で交互に押さえた。

「同じ形です」

「同じ字だから。あ、が二回」

アリアは鉛筆を持った。剣の柄を握るように、拳で握った。私は持ち方を直した。三回直した。アリアは一画ごとに私の顔を見て、紙に「あ」を書いた。丸の部分が閉じなかった。

日没の二十分前に、アリアは書斎の入口に立った。私は右手をポケットに入れた。影は六時前に、画面から三匹出た。一匹が鳴いて電灯が消え、画面とルクスの光だけになった。アリアは入口から踏みこんで、三回で斬った。電灯は六十数えるあいだに戻った。ゆうべも三匹だった。


九時半、私は葛西さんの名刺を出した。裏に、ボールペンで携帯の番号が書いてある。夜中でもかけて、と言われていた。

結末を探すと決めてから、二日たっていた。きのうの昼は、あの人のPCのフォルダを、end のほかは全部開いた。本棚の資料の箱も開けた。十二巻のプロットらしいものは、どこにもなかった。end は開けられない。

残っているのは人だった。でも、葛西さんにかければ、代筆の話の続きになる。土曜に「勝手にすれば」と言ったのは私だった。それで、名刺を出したまま、一日置いていた。

あの人の頭の中にあったものを知っている人がいるなら、そこから探すのが早い。会社は柳という人に代筆させると言っていた。代わりに書けると会社が思っているなら、その人は何かを知っている。

三回目の呼び出し音で、葛西さんが出た。

「ことりちゃん? どないしたん、こんな時間に」

「柳さんって、何を知ってるんですか。あの人の話の」

電話の向こうで、ガムを噛む音が止まった。

「……代筆の話、考え直したんか」

「結末を知りたいだけです」

少し間があって、葛西さんは言った。

「柳くんは、冬木さんの資料整理を四年やってた子や。プロットはたぶん、うちの誰よりも知ってる。最終章のことまで知ってるかは、分からへん。冬木さん、最後のとこは誰にも見せへんかったから」

「会えますか」

「木曜、柳くんが会社に来る。神保町や。学校のあとで間に合うなら、席作っとく」

日没は五時半すぎだった。木曜の授業は三時に終わる。神保町までは、家から一時間かかる。

「行きます」

電話を切ると、十時二分前だった。私は書斎に上がって、点滅を測った。十回で十二秒三七。一分に四十八回と半分。六日前は、五十六回と半分だった。

部屋に戻ると、アリアが床に座って、チラシの裏に「あ」を書いていた。紙の端から端まで、並んでいた。丸は、まだ半分くらい閉じていなかった。

「次に行くときも、あれにします。好きかどうか、もう一度食べて確かめます」

アリアは紙から顔を上げずに言った。

机の上に、あずきバーの棒が置いてあった。洗って、乾かしてあった。

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