第6話 書かない理由
2026.10.19
九月二十日、日曜日の朝。仏間の前を通ると、アリアが遺影の前に正座していた。
右の拳を左の胸に当てて、頭を下げていた。きのうと同じ礼だった。
「お父さん、おはようございます」
私は廊下で足を止めた。
アリアが顔を上げて、私に気づいた。
「やめて」
自分の声が、思ったより大きかった。
「その呼び方、やめて。あの人は、あんたの父親じゃない」
アリアは正座のまま、私を見ていた。
「あの人、夜に書いて、昼に寝てた。私が学校から帰ると寝てて、私が寝るころに起きてた。夕飯だけ作って、二階に上がっていった。十一年、ずっとそう」
数えたことはなかった。でも、十一年だった。父がこの家で一人で私を育てはじめたのと、同じ年数だ。
「陸上の大会にも、一回も来なかった。中学の都大会で三位になったときも。日曜の昼は寝てるから、って」
その日の夜、台所のテーブルに卵焼きがあった。甘いやつだった。父は何も言わなかった。私も何も言わなかった。
「あの部屋で、あんたのことを書いてたんでしょ。私と話すより」
言ってから、手のひらが熱いことに気づいた。
アリアは目をそらさなかった。
「私の顔を決めて、傷を入れて、心の中まで書いて、続きを書かずに死んだ人です。ほかの呼び方を、私は選びません」
声は静かだった。きのうと同じで、引かなかった。
私は口を開けた。でも、何も出てこなかった。喉の奥で、言葉が一つも形にならなかった。
アリアは私の顔を見ていた。それから、遺影を見た。もう一度、私を見た。口が閉じた。膝の上の手が、一度握られて、ほどけた。
アリアはそれ以上、何も言わなかった。
私は台所に行って、パンを二枚焼いた。一枚をアリアの席に置いた。アリアは仏間から出てきて、黙って食べた。その日、アリアは一度も「お父さん」と口にしなかった。私の前では。
昼すぎ、二階から下りると、アリアがまた仏間にいた。正座して、遺影を見ていた。礼はしていなかった。口も動いていなかった。私の足音を聞くと、アリアは立ち上がって、何も言わずに私の横を通り、階段を上がっていった。
私は仏間の入口に立って、遺影を見た。写真の父は、きのうと同じ顔をしていた。
書斎にも行った。丸椅子に座って、「end」のフォルダを開きかけて、やめた。四回目を間違えたら、何が起きるか分からない。それに、中に何があったとしても、読むのは私だった。
12.txtの最後は、「アリアは右手を上げた。」のままだった。カーソルが点滅していた。けさより遅いのかどうか、見ただけでは分からなかった。
千尋さんは、夜勤の続く週末は自分のアパートで寝ていて、この日は来なかった。夕方、私は走りに出た。
葬式から一度も走っていなかった。足が重いのは分かっていた。日没まで、四十分あった。駅の手前まで行って戻れば、三十分。日が沈む前に戻れる。
家にいて、仏間の前を通るたびにアリアの背中を見るほうが、そのときの私には重かった。
玄関で靴ひもを結んでいると、アリアが二階から下りてきた。父のジャージの上から、剣を腰に下げていた。
「来なくていい。暗くなる前に戻る」
「日が沈みます」
アリアはそれだけ言った。私は返事をせずに外へ出た。アリアは十歩うしろをついてきた。
住宅街の細い道を、駅のほうへ走った。体が思ったより動いた。動くあいだは、けさのことを考えなくてすんだ。時計は見なかった。見たら、けさのことに戻る気がした。
「ことりさん。日が沈みます」
うしろでアリアが言った。腕時計を見た。日没まで五分だった。三十五分、走っていた。駅の手前の角まで来ていた。
舌打ちが出た。自分に向けてだった。
私は折り返して、アリアの横をすり抜けた。家まで、走って十二分かかる。間に合わない。アリアは私を追って向きを変え、すぐに前に出た。家のほうを向いて、剣の柄に手をかけたまま走った。街灯は電柱一本おきで、間が暗い。三本目の街灯の下を過ぎたところで、日が完全に沈んだ。
前で、アリアが足を止めて「ことりさん」と呼んだ。
アリアの先の暗がりに、影が三つあった。犬くらいの大きさで、低く、こちらへ走ってくる。家のほうからだった。
一匹が鳴いた。
アリアの頭の上の街灯が消えた。その手前の一本も消えた。私の上の街灯は、ついたままだった。
アリアが剣を抜いた。白い光の中で、先頭の影がぼやけた。アリアは斬った。一匹がほどけた。
「一つ」
アリアが言った。十のうちの一つだ。一晩に十ほどしか斬れない、と木曜の夜に聞いていた。光を使いきると、刃はただの鉄になる。
残りの二匹は、アリアの両脇を抜けて、私のほうへ来た。
私は振り返って、駅のほうへ走った。
さっき通りすぎた、駅側の街灯の下に入った。追ってきた影は、光の輪に入ったところで遅くなった。一匹が鳴いた。その街灯も消えた。でも、その先の街灯は、まだついていた。
消えるのは、鳴いた影の近くだけだ。
私は歩数を数えていた。鳴いた場所から、消えた街灯までが十四歩。消えなかった街灯までが二十六歩。私の歩幅で十四歩なら、十メートルくらい。
「明るいほうへ行く。商店街」
うしろに叫んで、私は角へ向かった。
角を曲がると、駅前に続く商店街に出た。駅の裏の、古いほうの商店街だった。日曜は半分の店が休みで、残りも六時前に閉まる。通りに人はいなかった。街灯だけが、通りの両側に短い間隔で並んでいた。
私は通りの真ん中を走った。影がついてくる。一匹が鳴いた。私のまわりの街灯が三本消えた。私はその暗がりから、まだ明るいほうへ五歩出た。
影は暗がりの端で止まって、それから光の中へ出てきた。輪郭がぼやけていた。動きが、さっきの半分くらいに遅かった。
うしろから白い光が来た。アリアが追いついていた。
一太刀で、一匹がほどけた。
「二つ」
最後の一匹が、私の右手のほうへ跳んだ。私は右手を胸に抱えて、横に転がった。アリアの刃が、私の頭の上で影を二つにした。
「三つ」
アリアは剣を下げて、通りを見回した。もう何もいなかった。消えた街灯が、一本ずつ、ついていった。
私は商店街のシャッターに背中をつけて、座りこんだ。息が切れていた。脈を測るまでもなかった。
アリアは剣を鞘に納めて、私の前に立った。息は、ほとんど上がっていなかった。
「あと七」
息が切れたまま、私は言った。
「はい。今夜は、あと七つです。朝日を浴びれば、戻ります」
一晩に一匹なら、考えなくてよかった数字だった。今夜は三つ減った。影が十一匹来たら、足りない。
「ノクスは、終わりを喰います。エルセンでは、ずっとそう言われてきました」
アリアは、私の右手を見ていた。
「止まった物語に、終わりが来ないことは、ノクスにとっての勝ちです。だから、終わりを書ける人を狙うのだと思います。きのう、葛西さんの字は消えました」
それは、アリアの考えだった。証明はない。でも、影が毎晩私の手に来たことは、私が見た。
私は息を整えながら、数えた。
夜鳴きは、ゆうべまで一匹だった。今夜は三匹。点滅は毎晩遅くなる。影は、たぶん増える。十月の終わりまで、まだ一か月以上ある。
ほっておいても、終わらない。
結末という言葉で、ゆずの本の一行が浮かんだ。七つ目の鐘を鳴らした者は、この世界から消える。その結末を、私は探すことになる。誰が鳴らすのかは、まだ知らない。
それに、けさのことがあった。あの人を何と呼ぶかで、私は一言も言い返せなかった。あの人が何を書くつもりだったのか、私は何も知らない。知らないまま、この人にあの呼び方を持っていかれるのは、嫌だった。
「決めた」
私はシャッターから背中を離した。
「結末を探す。あの人が何を書くつもりだったのか、探す」
アリアの目が、少し開いた。
「書いてくださるのですか」
「書くかどうかは、それから決める」
私は立ち上がった。足が、まだ少し震えていた。
「書けるかどうかも分かんないし。あんたの言う血の話も、試したのは葛西さん一人でしょ」
アリアはうなずいた。
「はい。それで、かまいません」
帰り道、アリアは十歩うしろではなく、私の横を歩いた。剣の柄に手を置いて、街灯のない暗がりのほうを見ていた。
家の前で、門に残っていた花束が、街灯の下で枯れかけていた。きのう葛西さんがまっすぐに直した束だった。
アリアは門の前で立ち止まって、二階の書斎の窓を見上げた。窓は暗かった。画面の光だけが、カーテンのすきまから細く漏れていた。アリアは剣の柄から、手を離さなかった。