第5話 作者
2026.10.19
金曜の夜も、夜鳴きは一匹出た。
木曜の夜のあと、二人で決めたことがある。日が沈む前に、アリアは書斎の入口に立つ。私はキーボードから手を離して、右手をパーカーのポケットに入れておく。点滅を測るのは左手でやる。寝るときは、アリアが私の部屋の戸の内側に座る。
それが効くのかは分からなかった。ほかに思いつかなかっただけだ。
それでも影は画面から出て、ポケットのほうへ頭を下げた。アリアが一回で斬った。電灯が消えてから戻るまで、今度も六十くらいだった。私はそれをメモ帳に書いた。点滅の数字の、すぐ下に。千尋さんが家で寝ている夜に、あれが出たらどうするのか。それは、まだ書けなかった。
九月十九日、土曜日の午後、葛西さんが来た。千尋さんは夜勤明けで、自分のアパートに寝に帰っていた。
父の担当編集だった人だ。葬儀で一度話した。黒いパンツスーツで、髪は耳の下で切りそろえてある。玄関に上がる前から、ガムを噛んでいた。
「ことりちゃん、ごめんな、休みの日に。禁煙中やねん、これ。気にせんといて」
葛西さんは三十八歳で、大阪の人で、とにかく早口だった。
居間に通すと、葛西さんの目がアリアで止まった。アリアは父のトレーナーを着て、部屋の隅に立っていた。
「親戚です。海外育ちで、コスプレしてて」
ゆずに言ったのと同じ嘘だった。
「ああ、アリアの」
葛西さんはアリアの顔を見た。長く見た。それから何か言いかけて、ガムを噛み直した。
「よう似てはるわ。……ほな、本題な」
本題は二つあった。
一つは、最終巻のことだった。会社は十月末までに原稿がなければ、父の弟子だった柳という作家に続きを書かせる。それには、相続人の私の同意がいる。
冬木透というのが、父の本に印刷されている名前だった。
「冬木さんな、一年前から最終章だけ書けへんかってん。結末は決まってる、書けないだけ、て言うてはった。何回聞いても、それしか言わへん」
もう一つは、父のパソコンだった。どこまで書いてあるのか、自分の目で見たいという。
私は少し考えた。あのパソコンに他人が触ったら何が起きるのか、私は知らない。でも、あのパソコンを十年見てきたのは、父のほかにはこの人だけだった。仕掛けがあるなら、この人なら分かる。
「見るだけなら。キーボードには触らないでください」
私はそう言って、書斎に案内した。
葛西さんは画面の前で立ったまま、12.txtの最後のほうを読んだ。ガムを噛む口が止まった。
「アリアは剣を抜き、アリアはくしゃみをした。……なんやこれ」
入口に立っていたアリアの肩が、小さく動いた。知らない人の声で、自分の名前が読まれた。
「私が打ちました」
「なんで」
答えられなかった。葛西さんは私を見て、それから画面に向き直った。
「冬木さんの原稿に、こんなん残しといたらあかん。消すで」
「触らないで」
私が言ったときには、葛西さんの指はもう削除キーを押していた。考えるより先に、手が動いたようだった。
文字は消えなかった。何度押しても、カーソルが動くだけだった。範囲を選んで消そうとしても、選べなかった。
「ちょっと、ことりちゃん、何か入れた?」
「何も。そのパソコンに、何か入れられると思います?」
葛西さんは黙った。父はソフトひとつ自分で入れられない人で、そのたびに呼ばれていたのが葛西さんだった。
「自分で打ってみてもええ? ひらがな三つだけ。句点は打たへん」
葛西さんは先にそう訊いた。私はアリアを見た。アリアの名前でも、アリアのことでもない。句点がなければ、私のときは何も起きなかった。私はうなずいた。
葛西さんは末尾の後ろに、文字を打った。
「てすと」
打ったそばから、字が灰色だった。一秒ほどで、端から消えた。
葛西さんは、もう一度打った。同じだった。
「ことりちゃん、打ってみて。同じ字」
私はキーボードの前に立った。うしろで、アリアが息を止めたのが分かった。
「句点は打たない。この人のことも打たない」
私は先にそう言ってから、「てすと」と打った。字は黒いまま残った。私は消す音を聞かせるように、ゆっくり三回、削除キーを押した。三文字とも消えた。
葛西さんは画面を見たまま、ガムを噛むのを忘れていた。
「……くしゃみ、のほうは」
「打ったら、この人がくしゃみをしました。次の文で、右手が上がりました。本人は背中を向けてました」
葛西さんはアリアを見た。アリアは葛西さんを見返した。
「ほな、もう一回やって見せて」
「やりません。この人の同意なしに、この人のことは打たないって約束してる」
葛西さんは何か言おうとして、やめた。アリアのほうを、もう一度見た。それ以上は言わなかった。
かわりに、私の顔を見て言った。
「なんで、くしゃみなんか打ったん」
「最後の一行が、この人の話と同じだったから。塔の上で剣を抜こうとしたら止まった、って」
葛西さんは画面の「アリアは剣を抜き、」を、指でなぞらずに見た。
「信じたわけやないで。説明がつかんもんを、ないことにはせえへんだけや」
「このパソコン、ことりちゃん以外に触らせんといて。会社には、まだ何も言わへん。言うても誰も信じひんし、言うたら、ことりちゃんが変な子扱いされる」
そのとき、葛西さんの上着のポケットが鳴った。
アリアが剣の柄をつかんだ。葛西さんは電話に出て、廊下に出ていった。
「あの人は、誰と話しているのですか。声だけが、小さな板から聞こえました」
「電話。遠くにいる人と話せる」
「遠くの声を、運ぶのですか」
戻ってきた葛西さんは、帰りぎわに玄関でもう一度、柳さんの話をした。
「作者が死んだら、続きは誰かが書くしかないねん。作者の意図を一番知ってるのは、柳くんや。せやけど、締切は動かへん」
その日、葛西さんは「作者」という言葉を何回も言った。アリアは毎回、黙って聞いていた。
「勝手にすれば」
私はそう言った。父の本の続きを誰が書くのか。一冊も読んでいない私には、関係のない話のはずだった。
言ってから、廊下のほうを見られなかった。アリアがそこに立っているのは分かっていた。
葛西さんは靴をはいてから、もう一度アリアを見た。それから名刺の裏に携帯の番号を書いて、私に渡した。
「何かあったら、夜中でもかけて。原稿のことやなくてもええ。……考えといて」
葛西さんはそう言って、帰った。門のところで、残っていた花束を一つ、まっすぐに置き直していった。
アリアは仏間にいた。
父の遺影の前に正座していた。背筋をまっすぐにして、右の拳を左の胸に当て、頭を下げた。初めて見る礼だった。顔を上げてからも、アリアは長いあいだ遺影を見ていた。
私は仏間の入口に立っていた。
「さくしゃ、というのは」
アリアが前を向いたまま言った。
「書いた人。話を作った人」
「作った」
アリアはその言葉を、口の中で一度くり返した。
「私は、作られたのではありません。エルセンで生まれて、父を夜鳴きに殺されて、剣を覚えて、カイと歩いてきました。痛かったことも、寒かったことも、覚えています」
そこで、声が止まった。
「でも、この人は、私の顔に傷を入れました」
「葛西さんの字は消えました。ことりさんの字は残りました。エルセンでは、七つ目の鐘を鳴らせるのは、鐘守の血を引く者だけです。血が、その務めを継ぎます。ここでも、そうなのかもしれません」
鐘守。アリアは最初の朝、自分をそう名乗った。ゆずの本で読んだ一行が、頭の端に浮かびかけた。私はそれを、そこで止めた。
それは推測だった。試したのは葛西さん一人だ。私はそう言おうとして、言えなかった。ほかの説明を、私も持っていなかった。
アリアは遺影から目を離さずに訊いた。
「ことりさんは、この人を、何と呼んでいたのですか」
「……お父さん」
アリアは黙った。三十秒くらい、遺影を見ていた。
「葛西さんは、作者と呼んでいました」
「仕事の人だから」
「私は、そう呼びません」
アリアは遺影を見たまま、膝の上の手を握った。
「私の父は、顔を覚えていません。母は、思い出せません。母のところには、未定、とありました。私に名前をつけて、ここまで連れてきたのは、この人です。そして、途中で置いていきました」
声が、一度だけ揺れた。
アリアは私のほうに向き直った。膝をそろえたまま、まっすぐに私を見上げた。
「お父さん、私の結末を書かないまま死んだんです」
心臓が一回、強く打った。数えなくても分かった。
その呼び方は、私のものだった。
「作者の血を引くあなたなら、続きを書けるはずです」
言い切ったあと、アリアの手が膝の上で、もう一度強く握られた。
「書いたら、どうなるの。あんたの仲間は動くの」
「分かりません」
アリアは即答した。
「動くかどうかは、分かりません。でも、ほかに方法がありません」
遺影の父は、葬儀のために千尋さんが選んだ写真で、少しだけ笑っていた。私はその顔を、まともに見たことがなかった。