第4話 書かれていない場所
2026.10.19
九月十七日、私は学校に行った。
忌引きが明けた最初の日だった。担任は廊下で私を呼び止めて、「無理しないで」と言った。ゆずは何も言わずに、休んでいたあいだのノートを貸してくれた。六時間目が終わると、部活には出ずに帰った。家には、昼に寝ている千尋さんと、私の部屋から出ないと約束したアリアがいた。
四時半、千尋さんは夜勤に出た。玄関の鍵が閉まる音を聞いてから、アリアは階段を下りてきた。けさは朝ごはんを食べていた。きのうの夕飯を残した分まで食べた。でも、ほとんど口をきかなかった。
「父のパソコンを調べる」
私は言った。
「あの文のことが、どこかに書いてあるかもしれない。あんたの帰り方も」
アリアはうなずいた。
書斎の椅子には座らなかった。父の椅子は、救急の人が引いた角度のままだった。台所から丸椅子を持ってきて、机の横に置いた。アリアは私の右、一歩うしろに立った。私の手とキーボードが見える位置だ。三日前から、あの人はいつもそこに立つ。
12.txtの画面は閉じなかった。閉じたら何が起きるか分からない。横に別の窓を開いて、フォルダを順に見た。「資料」の中に「設定_旧」というファイルがあった。日付は十二年前だった。
開くと、短い行が並んでいた。
――ヒロイン。名前、リナ→アリア。
――年、十五→十七。
――髪、黒→赤銅。赤のほうが絵になる。
――左頬に傷。かわいすぎるので入れる。
「何と書いてあるのですか」
私は、そのまま読んだ。
アリアは最初の一行で眉を寄せた。
「私の名前は、生まれたときからアリアです」
「最初はリナだったって書いてある。矢印で、アリアに直してる」
「見間違えたのを、直したのでは。遠くから見ていたのなら、間違えることもあります」
年も、そう説明できた。髪の色も、見え方が違ったのかもしれない。私は四行目を読んだ。
アリアの左手が、頬に上がった。細い傷の上で、指が止まった。
見間違いを直すのに、かわいすぎるという理由は要らない。私はそれを口に出さなかった。アリアも言わなかった。指はしばらく頬から離れなかった。
ファイルには、まだ一行残っていた。
――母、未定。
私はそこで読むのをやめかけた。でも、アリアは「続けてください」と言った。私は読んだ。
「お母さんの名前は」
確かめるつもりで訊いた。未定と書いてあるなら、本人はどう答えるのか。
アリアは口を開いた。そのまま、何も言わなかった。
十秒たった。腕時計を見ていたわけではない。数えていた。
「……思い出せません」
「小さいころに亡くなったとか」
「父は、私が三つのとき、夜鳴きに殺されました。それは知っています。顔は覚えていません」
アリアの声は落ち着いていた。それから少し速くなった。
「母は。母のことは、暗いのでも、遠いのでもありません。探しても、そこに何もないのです」
私は別のことを訊いた。
訊くべきではないのかもしれなかった。それでも私は訊いた。外れなら外れだと、早く知りたかった。
「塔に来る前は、どこにいたの」
「南の峠から、カイと三日歩きました」
「その三日、何食べた。どこで寝た」
アリアは答えなかった。目が左右に動いた。何かを探しているときの動きだった。
「三日、歩きました」
同じ答えだった。
「焚き火の夜のことは、覚えてたじゃん。誰にも言わなかったことまで」
「覚えています。あの夜は、全部あります」
アリアは自分の手のひらを見た。
「三日のほうは、歩いた、ということしかありません」
アリアは、ほかのことも探しているようだった。唇が小さく動いていた。
「初めて剣を握った日は、あります。グラムに会った日も。七つ目の鐘の話を聞いた夜も」
ある日と、ない日がある。アリアはそれを並べて、黙った。どちらに何があって、何がないのか。私には見当がついた。焚き火の夜は、ゆずの本に書いてあった。
次に訊こうとしていたことが、いくつかあった。私は訊かなかった。訊いたのは私で、答えられなかったのはこの人だった。三日前、背中を向けたこの人の腕を上げたのも、私だった。
私はファイルを閉じた。あの人が何を考えているのか分からなかった。分かったのは、さっきまで「見ていた人」の話をしていた口が、もうそれを言わないことだけだった。
アリアは本棚の前に座った。背中を棚につけて、剣の柄を握っていた。私が次のフォルダを開くたびに、顔を上げて画面を見た。読めない文字を、それでも見ていた。
「資料」の奥に、「end」という名前のフォルダがあった。開こうとすると、パスワードを訊かれた。
終わり、という意味だ。父が最後に何を書こうとしていたのか、ここにあるのかもしれなかった。
父の誕生日を入れた。キーを押す音で、アリアが顔を上げた。
「あんたのことは打ってない。数字だけ」
アリアはうなずいて、また柄を握り直した。
違った。「aria」。違った。「nanaari」。違った。三回目で、私は手を止めた。何回まで間違えていいのか、分からなかった。中身が消える仕組みだったら、取り返しがつかない。
窓の外が暗くなりはじめていた。柿の木の輪郭が、空と同じ色になっていく。私は立って、書斎の電灯をつけた。
アリアも立ち上がった。また私の右うしろに来た。
「暗くなります」
それだけ言った。外のことなのか、ここのことなのか、私には分からなかった。
座り直して、マウスに右手を置いたときだった。
画面の端が黒くにじんだ。12.txtの白いところに、墨を落としたような染みが広がって、それが盛り上がった。
最初に頭が出た。犬くらいの大きさの、輪郭のはっきりしない影だった。目はなかった。画面からキーボードの上に前足を下ろして、低く鳴いた。
電灯が消えた。
書斎の明かりは、画面だけになった。影は画面の光を背にして、マウスの上の私の右手へ頭を下げた。
うしろから襟をつかまれた。丸椅子ごと引き倒されて、私は床に背中を打った。
影は机から床へ下りた。私の顔の横から首の前を通って、床についた右手のほうへ回りこんだ。
私は右手を背中の下に入れた。影は止まった。それから、私の体の脇を、手の隠れたほうへ回りはじめた。
白い光が頭の上を通った。
アリアが剣を抜いていた。光る刃の前で、影の輪郭がぼやけた。動きが遅くなったのが、床から見ていても分かった。アリアは私をまたいで一歩踏み込み、上から斬った。
影は二つに分かれて、煙みたいにほどけた。床には何も残らなかった。
アリアは剣を下げなかった。画面をしばらく見ていた。染みは、もうなかった。12.txtの文字は、右手を上げたところで止まっていた。カーソルが点滅していた。
私は床に倒れたまま、数えていた。電灯が消えたときから、ずっとだった。数えると落ち着く。六十二まで数えたところで、電灯がついた。
「夜鳴きです」
アリアが言った。柄を握ったまま、小さく「一つ」と言った。斬った数を数えているようだった。それから剣を鞘に納めた。手は震えていなかった。けさ黙って朝ごはんを食べていた人とは、別の人みたいだった。
「エルセンで、何度も斬りました。夜の獣です。灯を嫌います。だから、先に灯を消します」
それから私を見た。床に座ったままの、私の右手を見た。
「ノクスの夜です。あなたの手を、狙っていました」
「なんで手」
「分かりません」
アリアは画面から目を離さなかった。
「エルセンの夜鳴きは、喉を狙います。眠っている人の喉です。手を狙うのは、見たことがありません」
私は右手を膝に置いた。指がまだマウスの形に曲がっていた。
立ち上がって、丸椅子を起こした。脈を測った。一分に百十二。三千メートルを走り終えたときと同じだった。
アリアは、向こうは止まっていると言った。指を入れたら凍った。なのに、あの影は動いて出てきた。止まっているのは何で、動いているのは何なのか。私には分からなかった。
この手は、あの画面に文を打った手だった。