第3話 一巻を読む声
2026.10.19
アリアは父のトレーナーを着ていた。
私の服は、どれも入らなかった。父の箪笥を開けたのは私だ。それでも、紺色のトレーナーの袖を二回折ったアリアが台所に立っているのを見ると、目をそらしたくなった。
九月十五日の夕方、三輪ゆずが来た。
「ことりん、プリントと、あとプリン。三個あるんだよ。おばさんの分も」
ゆずは同じクラスで、丸い眼鏡をかけている。前髪はまっすぐ切りそろえてあって、鞄にぬいぐるみのキーホルダーが十個以上ついている。歩くと全部揺れる。
玄関でゆずの口が止まった。私の後ろに、アリアが立っていた。
「親戚」
私は先に言った。
「海外で育ったから、日本の字は読めない。で、コスプレしてる」
ゆうべ考えておいた嘘だった。アリアには、誰が来ても黙っていて、と頼んであった。アリアは「敵地では、口数の少ないほうが長く生きます」と言って、うなずいた。
ゆずはアリアの顔を見て、髪を見て、左の頬を見た。
「待って。アリアじゃん。完成度おかしいんだよ」
居間のテレビがついていた。夜勤に出る前の千尋さんが見ていたニュースの録画が、流れたままになっていた。アリアは画面の前で足を止めて、柄に手をやった。
「この板の中の人は、閉じこめられているのですか」
ゆずは笑った。役になりきっていると思ったらしい。リモコンを取って、映像を止めて、巻き戻して見せた。
「録画だよ。前に撮ったやつ」
アリアは止まった画面の男の人を見ていた。
「中の人は、自分が見られていることを、知っているのですか」
ゆずは「深い」と言って、また笑った。私は笑わなかった。
ゆずは鞄から文庫本を出した。表紙に、赤い三つ編みの女の子が描いてあった。
「ごめん、ことりん。言ってなかったけど、私、小学生のときからナナアリ読んでるんだよ」
言わなかった理由は、なんとなく分かった。私が父の話をしないからだ。
アリアは表紙を見たまま、動かなくなった。
絵の女の子は、アリアと同じ髪の色をしていた。同じ外套を着て、同じ剣を持っていた。左の頬に、細い傷が一本あった。
「ここ、好きなとこなんだよ」
ゆずはページをめくって、声に出して読んだ。
――アリアは焚き火の向こうのカイを見なかった。カイが繕った外套の肘を、指で一度なぞっただけだった。礼は言わなかった。そのことを、彼女は誰にも言わなかった。
アリアは立ち上がった。何も言わずに居間を出ていった。階段を上る音がした。
「え、私、なんか変なとこ読んだ?」
「人見知りなの」
私はそう言った。ゆずはもう一ページめくって、「次もいいんだよ」と言いかけて、手を止めた。
「あ、ここはだめ。ネタバレになる」
ゆずは本を閉じかけて、私に差し出した。
「貸すよ。二巻も入ってる。ことりんが読まなくても、親戚の人に読んであげて」
ゆずが帰ったあと、二階に上がった。アリアは私の部屋の床に座って、剣の柄を両手で握っていた。呼んでも返事をしなかった。夕飯を部屋に運んだ。一時間後に見に行くと、皿はそのままだった。きのう弁当を三つ食べた人だった。
私は居間に戻って考えた。
熱心なファンなら、本の中身を知っている。顔の傷も描ける。きのう近くで見た傷は、化粧には見えなかった。でも、見えなかっただけだ。ここまでは、まだ説明がつく。
説明がつかないのは、きのうの右手と、画面に沈んだ指だ。右手のとき、あの人は背を向けていた。私は声を出していない。それでも、文のとおりに腕が上がった。指のほうは、私が自分の手で引き抜いた。冷たさも、抜けるときの重さも、手に残っている。
あの人が本当に父の小説のアリアなのかは、証明できない。たぶん、この先もできない。
陸上では、設定ペースというのを使う。根拠が弱くても、とりあえず一キロ何分で入ると決めて走る。外れたら、そこで直す。
この人の話を、外れるまでは本当として扱う。私はそう決めた。信じたわけではない。
夜、アリアは私の部屋の床に座っていた。剣は膝の上にあった。
「さっきの言葉は、私が思ったことです」
アリアは窓のほうを見ていた。
「焚き火の夜です。カイが、破れた外套の肘を縫ってくれました。私は礼を言えませんでした。そのことは、誰にも言っていません。カイにも」
アリアは少し黙った。それから私を見た。
「あの人は、あなたを、ことりん、と呼んでいました。それが名前ですか」
きのう一日いっしょにいて、私は名乗っていなかった。
「ことり。りん、はゆずが勝手につけてるだけ」
「ことりさん」
アリアは一度だけ、確かめるように言った。
「あの本を書いた人は、遠くからエルセンを見ていた人なのですか。年代記の書き手のように」
私は答えなかった。答えを持っていなかった。
二十二時。書斎で点滅を測った。十秒三十六。一分に五十八回。きのうより一回少ない。
私はアリアを書斎に呼んだ。
「一つ、試したい。あんたについての文。いい?」
アリアは私の手を見た。
「何と書くのですか」
「アリアは空を飛んだ」
アリアは眉を寄せた。
「エルセンに、空を飛ぶ術はありません」
「だから試したい。書いたら起きるなら、書いても起きないことがあるのか、知りたい」
あの画面に打てば、この人の体が動く。どこまで動いてしまうのか分からないまま、毎晩あの前に座るのは嫌だった。
アリアは長く黙ってから、うなずいた。
「打ってください。あの板に何ができて、何ができないのか。それが分からなければ、帰る方法も探せません」
アリアは机の端を両手でつかんだ。体が浮いたときのためだと分かった。私も、つかんでいてほしいと思った。
私は打った。句点の上で、指が一度止まった。それから押した。
アリアの足は、床についたままだった。画面の文が、二秒くらいで薄い灰色になった。それから端から消えた。カーソルは、右手の句点の後ろに戻っていた。
ゆずの二巻を開いた。読むのではなく、調べるだけだ。ゆずに「二巻で、空を飛べないって書いてあるとこある?」と送ると、一分でページ数が返ってきた。
――エルセンに空を飛ぶ術はない。鳥だけが、鐘塔より高く行ける。
本に書いてあることに反したから、消えたのかもしれない。でも、この人にもともとできないことだから消えた、とも考えられる。一回では、どちらか分からない。
分けるなら、この人にできることで、本に反することを打てばいい。
「剣を捨てた、っていうのは。捨てるだけなら、できるでしょ」
私が言いかけると、アリアは剣の柄に手をかけた。
「できます。でも、誓いました。手放しません」
それ以上は訊かなかった。仮説は、仮説のまま残った。
九月十六日の夜。十秒六十二。一分に五十六回半。
三晩の数字をメモ帳に並べた。一日に一・三回と一・四回減っている。ほぼ同じだ。まっすぐ減っているなら、線を延ばせばゼロになる日が出る。
三晩では、減り方がまだぶれる。一日に一・二回しか減らない場合と、一・六回減る場合で、線を二本引いた。ゼロになる日は、十月二十一日から十一月二日のあいだに入った。
カレンダーを見た。十月二十八日に、千尋さんの字で「四十九日」と書いてあった。
偶然かもしれない。ほかに十二日ぶんの日付がある。でも、ほかの日付には意味がない。
私はメモ帳の数字の下に、小さく「10/28?」と書いた。
アリアは書斎の入口で、指先を見ていた。
「画面に入れた指が、塔の上の風の冷たさを覚えていました。それが、きのうより薄いです」
「気のせいじゃなくて?」
「点滅と同じだけ、遠くなっている気がします」
アリアが部屋に戻ったあと、私はゆずの一巻を開いた。ゆずが「ここはだめ」と止めたページだ。
――七つ目の鐘を鳴らした者は、この世界から消える。そのかわり、夜は明ける。
老人の台詞だった。
前のページに目が行きかけて、私は指でそこを隠した。短い文が並んでいた。父は家では、もっと長く、まわりくどく話す人だった。こんなふうに書く人だとは知らなかった。それ以上知るのが嫌で、本を閉じた。
誰が鳴らすのか、私は知らない。アリアに訊けばいい。でも、訊かなかった。