confabulations

未完のヒロイン

第2話 同意

2026.10.19

「それ、しまって」

私が言うと、アリアは少し迷ってから剣を鞘に納めた。手は柄から離さなかった。

私は自分の部屋に寄って、スマホをジャージのポケットに入れた。画面に110を出しておいた。押せば、すぐかかる。

一階に下りて、玄関を見た。鍵はかかっていた。チェーンも内側からかかったままだった。窓も一つずつ見て回った。全部閉まっていて、鍵も壊れていない。ガラスも割れていない。

アリアは私の三歩後ろをついてきた。私が窓の鍵を外して、また閉めるのを、黙って見ていた。

どこから入ったのかは、分からなかった。

台所で電気をつけると、アリアは柄を握り直した。

「火がありません」

「電気。スイッチで消える」

私は二回、消してつけた。アリアは天井の明かりから目を離さなかった。

冷蔵庫に、通夜の仕出し弁当が三つ残っていた。一つを開けて机に置いた。アリアは手をつけなかった。私の顔と弁当を、交互に見ていた。

毒を疑っているのだと分かるまで、少しかかった。私は同じ箱から卵焼きを一切れ取って食べた。アリアはそれを見てから箸を取り、使い方が分からずに置いて、指で食べた。

一箱を食べ終えて、二箱目に手を伸ばしかけて止めた。

「腹が減っていました」

アリアは自分の腹に手を当てた。

「死者の国なら、腹は減らないはずです」

私はその理屈に返事をしなかった。三箱目も出した。


七時。私はアリアを書斎に連れて戻った。

父のパソコンの画面を指さした。

「これ、読める?」

アリアは画面に顔を近づけた。

「これは、文字ですか」

「そう」

「模様にしか見えません」

嘘かもしれなかった。でも、嘘でないなら、この人は画面を読まずに、画面の一行と同じ話をしたことになる。剣を抜く途中で止まった、と。

馬鹿げた考えが一つ浮かんだ。続きを打ったら、この人も続きを動くのではないか。

何も起きなくても、この人が嘘をついている証明にはならない。それは分かっていた。でも、何も起きなければ、画面の一行のことは忘れていい。この人のことは、それから考えればいい。私は早く、忘れていいほうに決めたかった。

「後ろ向いて。窓のほう見てて」

アリアは私を見て、それから背を向けた。

私は声を出さずにキーを押した。父のキーボードは、思ったより固かった。

アリアはくしゃみをした。

句点を押したのと、くしゃみの音が、同じだった。

アリアは鼻を押さえた。私は画面を見た。父の一文のすぐ後ろに、私の打った文がくっついていた。

部屋はほこりっぽい。四日、窓を開けていない。偶然で説明がつく。

私は次の文を打った。指が少し遅くなった。

アリアの右手が上がった。

肘が伸びて、指先が天井を向いた。アリアは左手で自分の右の手首をつかんで、下ろそうとした。下りなかった。腕は文のとおりに上がりきってから、やっと止まった。

アリアが振り向いた。

右手が剣を抜いていた。左手が私の手首をつかんだ。強かった。骨が鳴りそうだった。

「今、私に何をしたのですか」

声は低かった。剣先は私に向いていなかった。床を向いて、震えていた。

私は答えられなかった。つかまれた私の手も、同じくらい震えていた。

アリアは私の手を見た。

「あなたも、震えていますね」

「……そうだけど」

手首をつかむ力は、弱くならなかった。

「何をしたのですか」

「打った。そこに」

私は画面をあごで示した。

「あんたが後ろを向いてるあいだに。アリアはくしゃみをした、って。そのあと、アリアは右手を上げた、って」

アリアの目が画面に動いた。

「そこには、ほかに何と書いてあるのですか」

「父が書いた最後の文は、アリアは剣を抜き、で止まってる。私が打ったのは、その後ろ」

アリアの顔が動かなくなった。

「塔の上の、あのときです」

「最初の文を書いたのは、誰ですか」

「父」

「父上は、どこに」

「死んだ。四日前に、そこで」

私は机を見なかった。アリアは机を見た。それから画面を見た。

「人の体を、文字で動かす術ですか。エルセンに、そういう術はありません。この国の術なのですね」

「知らない。私も、初めて見た」

アリアは私の震えている手を、もう一度見た。

「術を使う者が、自分の術に怯えるのを、私は見たことがありません」

手首をつかむ力が、少し弱くなった。

私は空いているほうの手で、削除キーを押した。文字は消えなかった。何回押しても、カーソルが右手の句点の後ろで点滅しているだけだった。

アリアは剣を下ろした。

「二度と、私の体のことを、私の後ろで書かないでください。私がいいと言わないかぎり」

「言わないかぎり、あんたのことは打たない」

アリアはやっと手を離した。私の手首に、指の形が赤く残った。

「……悪かった」

アリアは返事をしなかった。剣を鞘に納めた。それから、私の手とキーボードの両方が見える位置に立った。

「打ったら起きた。それは認める」

私は言った。自分に言ったのかもしれない。

「でも、あんたが父の小説から出てきたとは、思ってない」

ポケットのスマホを、私は一度握った。押せば警察が来る。来たら、剣を持ったこの人は、知らない男の人たちに囲まれる。この人はきっと剣を抜く。そして私は、何を説明すればいいのか分からない。この人の腕を上げたのは、私だ。

私はスマホから手を離した。


九時に、千尋さんが帰ってきた。

アリアには私の部屋にいてもらった。剣を抱えたまま、ベッドの横の床に座った。

千尋さんは父の妹で、看護師をしている。葬式のあと、うちに泊まりこんでくれている。髪をひっつめにして、くたびれたパーカーを着ていた。目の下が黒かった。父が死んでから、病院と葬儀屋とお寺のあいだを、千尋さんが一人で回していた。

台所で空の弁当箱を三つ見て、「こと、食べたんだ。えらいじゃん」と言った。

「寝たの」

「寝た」

嘘だった。千尋さんは私の顔を少し見て、「あとでちゃんと寝な」とだけ言った。

言えば、千尋さんは警察を呼ぶ。それが正しい。正しいことが起きたあとのことを、私はうまく想像できなかった。

千尋さんは仏間の隣で夕方まで寝た。四時半に起きて、また夜勤に出ていった。

そのあいだ、アリアは私の部屋から一歩も出なかった。「家に知らない者がいるあいだは、動きません」と言った。昼すぎに一度だけ、私に訊いた。

「あの板には、塔の上の私が書かれていました。あの板に書くと、私の体が動きました。あの板は、塔につながっているのではありませんか」

私には分からなかった。

日が暮れて、玄関の鍵とチェーンを確かめてから、アリアは書斎に戻った。

「来た場所から、帰れるか試します」

止めようか迷った。消せない文と、勝手に上がった腕を見たばかりだ。でも、帰りたいと言う人を止める権利が、私にあるとは思えなかった。腕を上げたのは私だった。

私はアリアの横に立った。何かあったら、手首をつかめる位置だ。

アリアは画面に右手を伸ばした。指先が画面に触れて、そのまま中に入った。第二関節まで沈んだ。

アリアの肩が強ばった。

「冷たい」

手を引こうとしたが、指は抜けなかった。入った部分だけが、白く固まって動かなかった。アリアが歯を食いしばった。

私は両手でアリアの手首をつかんだ。冷たかった。床に足を踏ん張って、引いた。

一回目は動かなかった。画面が、指を奥から握っているみたいだった。アリアが自分でも腕を引いた。二人で同時に引いた二回目で、指が抜けた。勢いで二人とも床に尻をついた。

アリアの指先は白かった。私が触っても、何も感じないと言った。十分ほどで色が戻った。

「塔の上の風と、同じ冷たさでした」

アリアは指先を左手で包んでいた。

「止まった風です。向こうは、まだ止まっているのだと思います」

少し間があった。

「カイも、止まったままだと思います」

「確かめられるの」

「いいえ」

アリアは画面を見た。

「今帰っても、私も一緒に止まるだけです。動かす方法を、探さなければいけません」


二十二時。

アリアは私の部屋の床で、剣を抱いたまま座って目を閉じていた。

私は書斎で、カーソルを見ていた。朝見たときは、壁の時計の秒針と同じ速さで点滅していた気がした。今は、少し遅い気がした。

気のせいかどうかは、測れば分かる。

腕時計のストップウォッチで、点滅を十回数えた。十秒十三。もう一回。十秒十二。もう一回。十秒十四。一分に、だいたい五十九回。

朝の数字はない。だから、これが最初の記録だ。

父の机の上のメモ帳に、日付と三つの数字を書いた。

アリアの指が凍った画面だった。それが遅くなっているのなら、気のせいであってほしかった。

明日の数字が今夜と違ったら、気のせいではない。

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