第1話 書斎の剣士
2026.10.19
午前五時十分。私は布団の中で、自分の脈を数えていた。一分に五十八。高校の陸上部で長距離をやっているので、ふだんはもっと少ない。
私は真壁ことり、十七歳。高校二年だ。
葬式は昨日終わった。父の真壁透は四日前の夜、書斎の机で死んだ。四十八歳。ライトノベルを書いていた。見つけたのは私だ。
叔母の千尋さんは夜勤で、九時まで帰らない。家には私しかいない。
二階の廊下の先で、金属のこすれる音がした。
一回だけだった。私は起き上がり、枕もとの黒い腕時計を左手首に巻いた。髪を頭の上で一つに結び直してから、廊下に出た。
書斎の戸は閉まっていた。三日前の朝に開けたきり、私は開けていない。あの朝、父は椅子に座ったまま、机に頬をつけていた。
戸のすきまから、白い光が漏れていた。
私は戸を開けた。
部屋は暗かった。カーテンが閉まっていて、本棚の影が壁を埋めている。父の椅子は、救急の人が引いたときの角度のまま、机から斜めに離れていた。私はそこを見ないようにした。光っていたのは二つ。机の上の、父の黒いノートパソコンの画面。それと、私の喉の前、三十センチのところにある剣先だった。
剣は白く光っていた。持っているのは女の人だった。背が高い。百五十センチの私より、頭一つ以上ある。赤銅色の長い髪を一本の三つ編みにして、紺色の外套を着ていた。胸に革の当て物。左の頬に、細い古い傷がある。年は、私とたいして変わらないように見えた。
「動かないでください」
女の人が言った。丁寧な言葉づかいだった。声は低くて、少しかすれていた。
「あなたは、夜の王の手の者ですか」
「は?」
それしか出なかった。
剣先は動かなかった。私も動かなかった。脈を数えようとしたが、速すぎて途中でやめた。
門の前の花束を思い出した。父が死んだことは、ネットのニュースになった。葬式のあと、知らない人が花を置いていった。手紙を挟んだものもあった。ファンだ。父の小説には、ファンがいる。
その中の一人が、家に入ってきた。そう考えるのがいちばん筋が通った。
「ここ、うちなんだけど」
私はできるだけゆっくり言った。刃物を持った人を刺激しないこと。学校の防犯講習で聞いた。
「どうやって入ったの」
女の人は答えなかった。少しして、「分かりません」と言った。
ふざけているようには聞こえなかった。私は剣を見た。光っているのは刃そのものだった。柄にも鍔にも、電池を入れる場所や配線は見当たらない。刃の縁は薄く、本物の刃物の形をしていた。
昨日の夜、玄関の鍵とチェーンをかけたのは私だ。窓も全部閉めて回った。父が死んでから、そういうことは私の仕事になった。
「カーテン、開けていい?」
女の人の目が、一瞬だけ窓に動いた。
「……ゆっくり」
私は横に二歩動いて、カーテンを引いた。
朝日が入った。柿の木の向こうから、まっすぐ部屋の奥まで届いた。
女の人は目を細めた。剣先が、十センチ下がった。
「朝……」
声が小さくなった。
「夜の王の城に、朝は来ません」
女の人は剣を下げたまま窓に近づいた。鞘には納めなかった。窓枠に手をついて、外を見た。瓦屋根と、電線と、マンションの壁。その向こうにも屋根が続いて、地平線まで途切れない。
「鐘塔は、どこですか」
「ないよ、そんなの」
女の人は窓の外をしばらく見ていた。窓枠についた指の先が白くなっていた。
「ここは、どこの国ですか」
「日本。東京。小金井市」
「知りません」
女の人は振り向いた。灰色の目だった。
「エルセンは、どちらの方角ですか。鐘の国エルセンです」
「知らない」
「では、ここは夜の海の向こうなのですか。世界の果ての先には、何もないはずです」
私は答えなかった。知らない国の名前を並べられても、答えようがない。
女の人は眉を寄せて、私の口もとを見た。
「あなたは、なぜ私の国の言葉を話すのですか」
「日本語だけど」
「ニホンゴ」
女の人は、その音をそのままくり返した。初めて聞く言葉を確かめるような言い方だった。それきり、何も言わなかった。
私は私で、鍵とチェーンのことを考えていた。合鍵を持っていても、チェーンは外から外せない。窓から入ったのなら、鍵を壊すか、ガラスを割るしかない。どこかが壊れているはずだった。確かめに一階へ下りたかった。でも、この人を書斎に残していくのも、背中を向けるのも嫌だった。
「あんた、誰」
女の人は背筋を伸ばした。
「アリア・フェンネル。鐘守の一族の剣士です」
アリア。
その名前は知っていた。一階の廊下に、アニメのポスターが貼ってある。父の小説『七つ鐘のアリア』がアニメになったときに、出版社が送ってきたものだ。赤い三つ編みの女の子が、光る剣を構えている。三年間、毎朝その前を通った。中身は一ページも読んでいない。父が夜じゅう起きて書いていたものだ。私が寝ているあいだに書かれたものを、起きてまで読む気にはならなかった。
目の前の人は、あの絵とよく似ていた。似せている、と思った。
父の小説のヒロインの格好をして、父の書斎に入りこみ、ヒロインの名前を名乗るファン。危ない人だ。スマホは自分の部屋の机の上にある。取りに行くには、この人に背中を向けて廊下を歩くことになる。
「アリアさん」
私は話を合わせることにした。警察はそれからでいい。
「なんでここにいるのか、最初から話してくれる?」
アリアは私を見た。私が本気で訊いているのかどうか、確かめるような目だった。それから、ゆっくり話しはじめた。
「塔の上にいました。七つ目の鐘の塔です。夜の王が、すぐそこまで来ていました。私は剣を抜こうとしていました」
アリアは自分の右手を見た。
「そのとき、風がやみました。舞っていた灰が、空中で止まりました。カイは何かを叫ぼうとして、口を開けたまま動かなくなりました。夜の王の手も、伸びたまま止まりました。動けたのは、私だけでした。剣を抜く途中の、この手だけが、ゆっくり動きました」
アリアの声は平らだった。でも、剣を握る右手の甲に筋が浮いていた。
「空が、紙のように白くなりました。気がついたら、この部屋の暗がりに立っていました。その布の端が、少しずつ白くなっていくところでした」
アリアはカーテンを目で示した。
「それ、いつ」
「さっきです」
アリアはすぐに答えた。そして、少し黙った。
「……さっきだと、思います」
それから、自分に言い聞かせるように続けた。
「夜の王が時を止めたのです。それが、あの者の望みでしたから」
私は返事をしなかった。設定をよく覚えているファンなのだろう、と思った。それなら話の中身は説明がつく。説明がつかないのは、鍵とチェーンと、電池のない剣の光だった。
アリアの首すじで、脈が速く打っていた。数えなくても分かる速さだった。私は、自分の声をもう少し低くしようと決めた。
私は机のほうを見た。
父のノートパソコンは、四日前から開いたままだった。救急の人も、葬儀屋さんも触っていない。私も触っていない。あの朝も、私は画面を見なかった。
父のパソコンは、しばらく触らないと画面が暗くなる。夜中にトイレに起きると、書斎の戸のすきまの光が、ときどき消えていた。父が手を止めている時間だった。四日も画面がついているはずはない。
画面には白い背景に、黒い文字が並んでいた。父の原稿だ。最終巻を書いている途中で死んだ、と葬式で担当の編集さんから聞いた。
いちばん下の行の末尾で、縦線が点滅していた。カーソルだ。
その行は、こう終わっていた。
「アリアは剣を抜き、」
読点のあとには、何もなかった。
私はアリアを見た。アリアは、抜いた剣を下げたまま、窓の光の中に立っていた。