confabulations

未完のヒロイン

第29話 四十九日の翌朝

2026.10.20

眠らなかった。

千尋さんは、一時間おきに私の左腕を見に来た。袖をまくって、白い縁を指で押して、私に指を一本ずつ動かさせた。三時の回で、縁が少し狭くなった、と言った。ゆずは、二時ごろに壁にもたれたまま眠った。

私は、窓のそばの床に座っていた。小石を、右手に握っていた。

四時を過ぎると、窓の外の柿の木が、黒い形になって見えはじめた。

四時半。五時。腕時計を見るたびに、八分を足した。

九月十四日の朝も、私は起きていた。五時十分に、自分の脈を数えていた。あの朝、書斎で音がした。

五時四十分。腕時計では、五時三十二分だった。

カーテンの端が、少しだけ明るくなった。まだ白くはなかった。

脈を数えた。一分に、九十八。陸上の大会の、スタートの前より多かった。

五時四十八分。

カーテンの端が、白くなった。

空気が、冷たくなった。窓は閉まっていた。暖房もついていた。それでも、首のうしろに、冷たい風が当たった。止まった風の冷たさだった。小石と同じだった。

窓のそばの床に、人が立っていた。

紺の外套を着ていた。赤い三つ編みが、肩から落ちていた。腰に、剣を下げていた。剣は、光っていなかった。

アリアは、部屋の中を見回した。本棚。机。暗い画面。私。

剣の柄に、手はいかなかった。

「……ここは」

アリアは言った。

「死者の国では、ありませんね」

声が、かすれていた。

「お腹が、すいています」

アリアは、自分の両手を見た。握って、開いた。左の頬の傷に、指で触った。

「私は、消えたのでは、なかったのですか」

「消えたよ。向こうから」

立てなかった。足がしびれていた。私は床に座ったまま、右手を開いて、小石を見せた。

「これと、同じ。夜明けに、ここに来た」

アリアは、小石を見た。あの朝、二人で拾った小石だった。

「私は、生きているのですか」

「お腹、すいてるんでしょ」

アリアは、長いあいだ、私を見ていた。それから、ゆっくり、うなずいた。


言うことを、一晩考えていた。何も思い出せなかった。

「……おかえり」

アリアは、少し驚いた顔をした。それから、言った。

「ただいま」

ゆずが、目を覚ました。壁にもたれたまま、声を出さずに、口を両手で押さえた。階段を上がってくる足音がした。千尋さんだった。戸口で止まって、アリアを見て、それから、何も言わずに戸の柱に手をついた。

アリアは、自分の左腕を見た。外套の袖に、黒い染みがあった。

「開きました。鐘を打ったときに」

千尋さんが、我に返ったみたいに、部屋に入ってきた。


千尋さんがアリアの傷を見ているあいだ、私は訊いた。訊きたいことの、順番が分からなかった。

「あずきバー、覚えてる?」

アリアは、私を見た。

「覚えています。野川を走ることも。ひらがなも。千尋さんの卵焼きが、お父さんのより甘くないことも」

それで、やっと息が吐けた。向こうに戻ったら、こっちのことは、なくなるかもしれないと思っていた。書かれていないことだから。

「向こうで、何があったか、話して」

アリアは、うなずいた。

「戻ったとき、私の左腕は、もう振り上がっていました。ノクスの手は、カイの肩の上で止まっていました」

アリアは、そこで少し黙った。

「振り上げた刃の先に、ノクスの手首がありました。段取りには、手首、としかありませんでした。骨と骨のあいだが見えたので、そこに当てました。それは、私が見て、決めたことです。左の肘を体につけて、右手で押しこみました」

アリアは、右手を握って、開いた。

「一行ずつ、百、数えてた」

「……そうでしたか」

アリアは、少し黙った。

「私には、あいだがありませんでした。一つのことをすると、もう、次のことをしていました。いつも、すぐに」

百を数えたことは、アリアには、届いていなかった。九月に、止まっていたあいだのことを、アリアが何も覚えていなかったのと、同じなのかもしれなかった。

「鐘の前へ、歩きました。走らずに。カイは、台座の左にいました。外套の腕で、ノクスの影を受けていました」

私が打った字が、アリアの口から、出来事になって戻ってきた。

「手紙は」

「言いました。全部」

アリアは、自分の手のひらを見た。

「カイは、口を開けました。九月と同じ顔でした。その次に覚えているのは、鐘を打ったことです」

カイの返事は、段取りになかった。読み合わせの夜、入れないでください、とアリアが言った。

「返事は、聞けませんでした」

アリアは、外套の左の肘に、指で触った。カイが縫った跡だった。しばらく、そこから指を離さなかった。私は、何も言わなかった。言えることが、なかった。

「鐘は」

「鳴りました。両手で打ちました。左の腕が、そこで開きました。東の胸壁の向こうが、白くなりはじめました」

ゆずが、鼻をすすった。鐘、鳴ったんだ、と小さい声で言った。一巻から、ずっと読んできた鐘だった。

アリアは、窓のほうを見た。カーテンのすきまから、朝の光が細く差していた。

「その次に覚えているのは、白い空です。紙のように、白くなりました。あいだは、分かりません」

この世界から消えた。私が打った文だった。

向こうで、鐘は鳴った。夜が明けはじめるところまでは、アリアが見た。

「カイたちは」

私は訊いた。訊かないと、いけなかった。

「今も、止まってるかもしれない。私の書いたところで」

アリアは、すぐには答えなかった。

「私が見たのは、明けはじめるところまでです。そのあとは、分かりません」

それから、アリアは言った。

「でも、鐘が鳴ったら、夜は明けます。グラムが、そう言いました。一巻に、書いてあります」

書かれたことは、変わらない。それは、私が一番よく知っていた。四十五日、書かれたことに、私の文が弾かれてきた。

「夜が明けるのは、信じられる。でも、そのあと、カイたちが止まらずにいるかは」

「分かりません」

アリアは言った。

「了のあとのことは、どこにも書かれていません。確かめる方法も、ありません」

「だから、明けたことに、します。私が、そう決めます」

ゆずが、顔を上げた。証明はできない、と私が言った夜に、ことりんが嘘ついてないって私が決める、と言ったのは、ゆずだった。

「最後の文は、何でしたか」

アリアが訊いた。

「アリアは、この世界から消えた。それと、了」

「その先は」

「書いてない。消えたアリアは、まで打って、消した」

アリアは、目を伏せた。長いあいだ、そうしていた。

「では、ここにいる私は、誰にも書かれていないのですね」

「うん。誰も、書いてない」

アリアは、もう一度、自分の両手を見た。


千尋さんは、アリアの傷を見て、二か所、開いている、と言った。縫い直す、と言って、一階へ道具を取りに行った。

アリアは、私の左腕に目をとめた。袖の下から、白い縁が見えていた。

「ノクスに、触れましたか」

「つかまれた。右手を狙ってきたから、左で受けた」

アリアは、何か言おうとして、やめた。かわりに、鐘守の礼をした。右の拳を、左の胸に当てて、頭を下げた。法要の日に、遺影の前でしたのと同じだった。

「カイには、もう、会えません」

顔を上げて、アリアは言った。質問ではなかった。

「たぶん」

私は言った。たぶん、としか言えなかった。

アリアは、窓のほうを向いた。カーテンを、少しだけ開けた。柿の木の向こうに、屋根が続いていた。鐘塔は、なかった。九月十四日の朝と、同じだった。

アリアは、長いあいだ、そこを見ていた。外套の左の肘を、右手で押さえていた。

それから、うなずいた。カーテンから手を離して、窓のそばの床から、一歩、私のほうへ来た。九月十四日の朝、剣をこちらに向けて立っていた場所から。

「ことり」

さん、がなかった。

「おはようございます、ことり」

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