第30話 未完のヒロイン
2026.10.20
最終巻は、三月の終わりに出た。
表紙には、アリアが描かれていた。鐘の前に立って、こちらに背を向けていた。顔は描かれていなかった。ミヤさんが、そう描きたいと言った。
著者の名前は、二つ並んでいた。冬木透。真壁ことり。
十月二十九日の朝、千尋さんは私を病院へ連れていった。凍傷だと言われた。十月に、どうして、と医者に訊かれて、千尋さんが、ドライアイスで、と答えた。私は、黙っていた。
その日の夕方、葛西さんが来た。居間で、最終章を印刷した紙を、一枚ずつ読んだ。ひらがなの手紙のページで、長く手が止まった。最後の、了、まで読んで、紙をそろえた。
「本に、する」
それだけ言った。
十一月のはじめに、葛西さんと柳さんが家に来た。
私は、居間のテーブルに、一巻の再校ゲラと、父の最終章のメモを印刷した紙を並べた。
「父は、一巻のゲラで、死ぬ、を消して、この世界から消える、に直しました。まだ決めなくていい、と書いています。でも、十一年たって、このメモに、死ぬ、と書きました。父は、最後には、死ぬほうに決めていたんだと思います」
柳さんが、顔を上げた。
「最終章は、父の意図とは違います。死んだ、とは書いていません。消えた、までです。違うのを選んだのは、私です。だから、私の名前も並べてください。父の名前だけで出したら、父が決めたことになるので」
柳さんは、メモの紙を、ゲラの上にそっと重ねた。それから、自分の鞄から、二十三枚の原稿を出して、膝の上に置いた。
「僕は、冬木さんの意図を書いた。君は、違うと分かって、自分で書いた。それなら、それはもう君の結末だ。僕が代わりに書く理由がない」
葛西さんが、そこで初めて、長く息を吐いた。
「ただ、僕は今でも、アリアは死ぬべきだったと思っている。グラムの死が、少し軽くなった。本が出たら、そう書くかもしれない」
「書いてください」
柳さんは、少しだけ笑って、原稿を鞄に戻した。
アリアは、台所で、戸を少し開けて聞いていた。柳さんは、最後まで、アリアが誰なのかを知らなかった。
十一月のあいだ、私は三つのことを測った。
一つ。夜鳴き。十月二十八日の夜から、一度も来ていない。日没のあと、書斎の前で懐中電灯を持って待った夜が、三十日続いた。
二つ。小石。十月に台所の温度計を当てたとき、部屋より三度低かった。握っても温まらなかった。アリアが戻った日から毎朝測って、十一月三日の朝、部屋と同じになった。それから、一度も下がっていない。
三つ。剣。九月から、ルクスの光は朝日で戻った。十月二十九日から、アリアは毎朝、縁側で刃を朝日に向けた。三十日、戻らなかった。
「止まった風の冷たさが、なくなりました」
アリアは、小石を手のひらにのせて言った。
「こっちに来なくなっただけかもしれないよ」
私は言った。
「原稿が閉じて、つながりが切れただけでも、たぶん同じになる。三つとも、こっちのことしか言ってない」
「分かっています」
アリアは、小石を握った。
「夜が明けはじめるのは、私が見ました。そこまでは、本当です。そのあとのことは、ことりが何を測っても、分かりません」
「ルクスは」
「ルクスは、鐘の光をまとう剣です。鐘は、鳴りました。だからかもしれません。分かりません」
測れたものは、気に入らなくても認める。私は、そうしてきた。認められるのは、こっちに何も出なくなったことまでだった。その先は、アリアが、明けたことにすると決めた。私は、それを直さなかった。
十二月のはじめの朝、アリアは剣を背負わずに玄関へ来た。
「置いてくの」
「はい」
「前は、置いていけないって言った。誓ったって」
アリアは、靴紐を結んだ。一回で結べた。
「誓いは、守ります。生涯、手放しません。前は、背負って走ることが、守ることだと思っていました。今は、毎晩一度、出して、拭きます。それで守ると、私が決めました」
剣は、父のゴルフバッグに入れて、客間の押し入れにしまってある。夜、押し入れの戸が開く音が、ときどきする。
あとがきだけは、一人で書いた。
父は、この巻を書き終えずに亡くなりました。最後の章は、娘の私が書きました。父が決めていた結末とは違います。アリアがこのあとどうなったかは、書いていません。書かないことを、アリアと決めました。
アリアと決めました、のところで、葛西さんは赤ペンを止めた。止めて、何も書かずに、次のページへ行った。
最終巻の感想は、ネットで割れた。
アリアは死んだのか、消えただけなのか。どちらも、本には書いていない。私は、どれにも返事をしなかった。ひらがなだけの手紙のことも、塔の頂上の小石が一つ消えたという一文のことも、たくさん書かれていた。前触れだという人も、誤植だという人もいた。
福岡の母からは、読んだよ、と電話があった。少し黙って、あの人の文じゃないところ、すぐ分かった、と言った。どこで分かったのかは、訊かなかった。
さくらさんからは、図書館の便箋で手紙が来た。
受け取りました。ことりさんの結末を。
それだけだった。
ゆずは、発売の日に三冊買った。読む用と、しまう用と、私にサインをもらう用だった。
「くしゃみのとこが、一番好き。あそこで、アリアが人間になった気がしたんだよ」
最終決戦の前に、アリアがくしゃみをする。父の最後の一文の、すぐ後ろだった。あれは、私が最初に打った文だった。アリアの嘘を暴くつもりで、アリアに断らずに。校正のとき、最初の朝のことも、ゆずに話してあった。
褒められても、うれしくなかった。横で聞いていたアリアが言った。
「くしゃみは、かまいません。右手は、まだ、許していません」
ゆずは、うなずいた。それから、少し考えて、言った。
「最後は、本としては、ずるくなかったよ。生きてた、って書いてないから。一巻から読んできた人は、ちゃんと、消えたところで本を閉じられる」
ゆずは、アリアのほうを見た。
「でも私は、知ってるから。もう、本だけの人と同じには読めない」
アリアは、最終巻の、自分の手紙のページだけを、自分で読んだ。ほかのページは、まだ漢字が読めない。今は、三百字くらい読める。読み終えて、次のページを一度だけめくった。カイの返事は、どこにもない。それを自分の目で確かめてから、本を閉じた。
身元のことは、千尋さんが、弁護士の人と話している。まだ、決まっていない。ここで何をして生きるのかも、まだ決めていません、とアリアは言う。アリアのこの先は、まだ誰も書いていない。
朝は、二人で野川を走る。四月は、五時二十分にはもう明るい。アリアは、父が一度も履かなかったシューズで走る。かかとが、すり減ってきた。
一度、橋の上で、アリアが足を止めた。
「カイに話したいことが、毎朝、一つずつ増えます」
私は、何も言わなかった。アリアは、また走りだした。
アリアの左腕の傷は、白い線になった。私の左の手首にも、細い白い輪が残った。腕時計は、三月に、アリアに渡した。八分遅れたままだった。ラップを取るのに、時刻は要らない。
四月の、春季大会。三千メートル。
スタンドの、ゴールの正面に、千尋さんとゆずとアリアがいた。
千尋さんは、休みを取っていた。父の手帳には、毎年この大会の日付が書いてあった。線は、一本も引いていなかった。
スタートラインで、スタンドを見た。アリアが、腕時計を握った手を、少しだけ上げた。
号砲が鳴った。
一周目を過ぎたところで、スタンドから声がした。
「七十四!」
アリアの声だった。教えたのは、ストップウォッチを押す場所だけだった。野川で毎朝、私の一キロを測って、自分で覚えた。
二周目。「七十五!」
三周目。「七十五!」
設定ペースだった。根拠は弱い。でも、外れるまでは、これで行く。
五周目で、前の二人が落ちてきた。六周目で、一人を抜いた。
「七十三!」
アリアの声が、少し高くなった。
残り一周の鐘が鳴った。
最後の二百で、もう一人に並んだ。腕を振った。左の手首の白い輪が、目の端に入った。
最後の直線に入ったとき、スタンドが見えた。ゆずが立ち上がっていた。千尋さんも、立っていた。アリアは、腕時計を握ったまま、身を乗り出していた。赤い三つ編みが、肩から落ちていた。
ゴールした。
膝に手をついて、息を吐いた。掲示板の数字が出るより先に、声が届いた。顔を上げると、アリアが、スタンドの手すりの向こうから、大きな声で、私のタイムを読み上げていた。自己ベストだった。
アリアは、笑っていた。