第28話 この世界から消える
2026.10.20
次の文は、手帳の最後の丸の行だった。
アリアは鐘を打った。
打った。句点の前で、指を止めた。
「こと、早く」
千尋さんが、うしろで言った。白いものは、肘の上まで来ていた。服の上からでも分かった。腕が、私の体についている重いものになっていた。
「アリアが、言い終わってない」
手紙は九行あった。向こうで、アリアがあれを声に出して言っているなら、まだ途中かもしれない。途中で鐘を打たせたら、最後の行がカイに届かないかもしれない。分からなかった。分からないから、待った。
一から数えた。数えながら、頭の中で、手紙を読んだ。アリアの話す速さで。かいへ。ひじを ぬってくれて、ありがとう。アリアは、ひらがなを一字ずつ、指でなぞって読む。九行は、百より短いはずだった。
ゆずが、一緒に数えはじめた。声が震えていた。千尋さんは、もう何も言わなかった。私の肩を抱える腕だけが、強くなった。
五十を過ぎたころ、肩の先が冷たくなった。冷たい、が分かるうちは、まだ大丈夫だと思った。七十で、首の横に冷たいものが触った。
百。
句点を押した。
字は、黒いままだった。
何も聞こえなかった。鐘の音は、ここまでは来なかった。
かわりに、手が、崩れた。
指の先から、灰になった。二十六日の夜明けに、影が崩れたのと同じだった。灰は床に落ちる前に消えた。手首をつかんでいた形のまま、黒いものが薄くなって、なくなった。
左腕が、急に私のものに戻った。重さだけが戻った。感覚は、戻らなかった。
腕時計の秒針が、動き出した。携帯を見ると、四時五十五分だった。
ゆずが、懐中電灯を下ろした。下ろしてから、もう一度、画面に向け直した。何も出てこなかった。
「……明けたんだ」
ゆずが言った。
向こうで、夜が明けた。たぶん。私に見えるのは、黒く残った一行だけだった。
千尋さんが、私の袖をまくった。手首から肘の上まで、皮膚が白かった。縁のところが、霜みたいにざらついていた。アリアの左腕の傷と、同じ白さだった。
「指、動かしてみな」
動かなかった。
千尋さんは、私の手首に指を二本当てて、しばらく黙った。それから、私の爪を一つ押して、離した。
「脈はある。爪の色も戻る。血は通ってる」
千尋さんは、ゆずのほうを見た。
「ゆずちゃん。洗面器に、お風呂くらいのお湯。熱いのはだめ。走って」
ゆずが階段を駆け下りていった。
「凍傷なら、温める。凍傷じゃないなら、私には分からない。三十分温めて、指が動かなかったら、すぐ救急に行く。途中で色が悪くなっても、すぐ。いいね」
「……うん」
「あと何行」
「一行。それと、了」
千尋さんは、うなずかなかった。でも、止めもしなかった。
ゆずが、湯気の立つ洗面器を抱えて戻ってきた。千尋さんが、私の左腕を肘まで沈めた。何も感じなかった。湯の中で、白い皮膚が、ゆらゆらして見えた。
手帳を見た。丸の行は、もうなかった。最後に、アリアと二人で決めた一行だけが残っていた。
アリアは、この世界から消えた。
打った。句点の前で止めた。声に出して読んだ。ゆずが読んだ。千尋さんが読んだ。百、数えた。
句点を押した。
黒いままだった。
画面の向こうで、それが起きたはずだった。アリアは、鐘の前から、いなくなったはずだった。私の打った文で。
ゆずが、声を出して泣いた。千尋さんが、ゆずの背中に手を置いた。
私は、黒い一行を見ていた。一巻のゲラで、父が赤で直したほうの言葉だった。それを、父の椅子で打った。
それが父の結末なのか、私の結末なのか、まだ分からなかった。
カーソルが、点滅していた。もう、ほとんど動かなかった。一度消えて、次に出てくるまでが、長かった。
右手が、キーボードの上で動いた。
消えたアリアは、
そこまで打って、指が止まった。その先の言葉を、私は知っていた。法要の日から、ずっと知っていた。生きていた。場所を書かなければ、たぶん通る。試してはいない。
書かないでください、とアリアは言った。
生きてるって書くのは、守るってことだ。法要の日に、私はそう言った。今も、そう思っていた。笑える、と書くのとは違う、と思っていた。アリアは、それを決めるのも自分にさせてくれ、と言った。
どちらが正しいのか、私には、まだ分からなかった。分かっていたのは、アリアがそう決めた、ということだけだった。
「ことりん」
ゆずが、懐中電灯を持ったまま、キーボードのほうへ半分手を出した。
「それ、書いたら」
ゆずは、そこで口を閉じた。手を、引っこめた。
「アリアが、書かないでって言った」
「……うん」
ゆずは、自分の手を、もう片方の手で握った。
削除キーを押した。句点の前の字は、まだ消せた。一字ずつ、消えたアリアは、が、なくなった。
右手を、膝の上に戻した。
了、を打つ前に、一つだけ怖かった。
ファイルが閉じたら、何も起きなくなるかもしれない。消えたものが夜明けに来るのも、このファイルが開いているからかもしれない。誰も、試したことがない。
でも、打たなくても、点滅はもうすぐ止まる。止まったら何が起きるのかも、分からない。
父の原稿は、十一冊とも、最後の行に了の一字があった。終わりの印だ、とアリアに教えたのは私だった。
三つ目の条件だった。戻らなくても、了を打つ。戻るかどうかを、了で決めないために、アリアはそう言ったのかもしれなかった。
私は、了、と打った。句点を打たなければ、何も決まらない。句点を押した。
字は、黒いままだった。カーソルが、止まった。点滅しなかった。次の瞬間、原稿のウィンドウが、勝手に閉じた。
画面には、父の壁紙が出ていた。柿の木の写真だった。窓の外の、この木だった。
しばらくして、画面が暗くなった。
九月十四日の朝から、一度も暗くならなかった画面だった。
千尋さんは、お湯が冷めるたびに、ゆずに替えさせた。二十分を過ぎたころ、肘の内側に、針で刺すような痛みが来た。三十分の少し前に、指が動いた。親指と人差し指だけだった。痛かった。
「痛いのは、いいこと」
千尋さんは、指の一本ずつに触って、どこが分かるか私に言わせた。全部、分かった。
「今夜は、私が一時間おきに見る。色が変わったら、すぐ救急。あしたの朝、病院」
白いところは、縁だけが残った。
ゆずが、自分の家に電話をした。泊まる、と言った。
葛西さんには、今夜の分の写真を送らなかった。終わりました、あした全部送ります、とだけ書いた。
九時半に、一度だけ一階へ降りた。仏間で、父の遺影の前に座った。今日が、四十九日だった。
手帳の最後のページを思い出した。アリアを終わらせる。終わらせたら、ことりの父親に戻る。
「終わらせたよ」
声に出してみた。父は、写真の中で、少し眠そうな顔をしていた。
「死んだ、とは、書かなかった」
それ以上は、言うことがなかった。線香を一本立てて、二階に戻った。
夜鳴きは来なかった。十時になっても、画面は暗いままだった。点滅を測るものが、もうなかった。
私は、キーボードの横から、灰色の小石を取った。二週間、そこに置いたままだった。千尋さんには、まだ話していなかった。
「十三日の夜に、小石が一つ、この世界から消えた、って打った。次の朝、空が白くなったときに、この机の上に落ちてきた」
千尋さんは、小石を見た。それから、私を見た。
「あの子も、そうなるの」
「分からない。石と人が同じかは、分からない。鐘で消えるのと、文で消えるのが同じかも」
「でも、待つんだ」
「待つ」
千尋さんは、何か言いかけて、やめた。
ゆずは、自分の膝を抱えて、壁にもたれた。千尋さんは、毛布を三枚持ってきた。
九月十四日の朝、アリアが剣をこちらに向けて立っていた場所は、窓のそばの床だった。私は、その前に座った。
腕時計を見た。十時十八分。携帯は、十時二十六分だった。八分、遅れていた。直すのは、あとにした。
小石は、握っても、まだ温まらなかった。
空が白むのは、五時五十分ごろだった。