第27話 七つ目の鐘
2026.10.20
月曜日、私は学校に行かなかった。一晩、寝ていなかった。アリアも寝ていなかったが、居間のテーブルから動かなかった。
線のあるルーズリーフを、十枚渡した。アリアは右手だけで、鉛筆を握った。読まない、と約束したので、私は台所にいて、テーブルのほうは見なかった。
消しゴムの音が、何度もした。紙を丸める音も、三回した。
夕方、アリアは白い封筒を一つ、私の前に置いた。封はもう閉じてあった。表に、ひらがなで、かいへ、とあった。一字ずつ、鉛筆が紙にめりこんでいた。
私はそれを、父の黒い手帳のあいだにはさんだ。
火曜の夕方、千尋さんが抜糸した。六本。一本ずつ、糸を切って抜いた。
「腕、上げてみな」
アリアは、左腕をゆっくり上げた。肩の高さで一度止まって、それから頭の上まで上げた。
「ちゃんと振れるのは、一回か二回。それ以上やったら、また開く」
「一回で、いいです」
夜、四人で、手帳の段取りを読み合わせた。四十一行。私が一行ずつ声に出して読み、アリアが「はい」か「違います」と言い、ゆずが十巻と十二巻の付箋をめくった。
二十行目で、ゆずの手が止まった。
「ことりん。『鐘守は、七つ目の鐘へは、歩いて進む。走る者の前で、鐘は鳴らない』。十巻」
二十行目は、「アリアは、鐘の前へ駆け寄った。」だった。アリアは、台座へ行く、とだけ言っていた。駆け寄る、は、写すときに私が足した言葉だった。
左腕の夜と、同じだった。写すときに、私は言葉を足したり、落としたりする。
「歩いた」に直した。四十一行のうち、直したのは、その一行と、言い回しの三行だった。
「一行ずつ、ゆっくり打ってください」
アリアは言った。
「向こうで、次の文がどのくらいの速さで来るのか、私には分かりません。右手のときは、くしゃみのすぐあとでした」
それが効くのかは、誰にも分からなかった。分からないから、待つことにした。
一行打つ。句点の前で止める。声に出して読む。ゆずと千尋さんが読む。百数える。それから句点を押す。一行、四分。四十一行で、二時間と四十五分。手紙は九行です、とアリアは言った。
日の入りは四時四十六分。一時に始めれば、一時間近く余る。
「暗くなったら、斬る人がいないよ」
千尋さんが言った。二十六日の夜を越えられたのは、アリアが斬って、鞘で押し戻したからだった。光だけでは、遅くなるだけだ。
「だから、暗くなる前に終わらせる。終わらなかったら、四時半から画面と手元を照らす」
鐘が鳴れば、向こうの夜が明ける。そうしたら、こっちに漏れてくる夜も、たぶん終わる。たぶん、としか言えなかった。
寝る前に、アリアは画面に右の指を入れた。第一関節まで入れて、自分で抜いた。
「九月ほど、冷たくありません」
指先は、少し白かった。
その夜、十時の点滅は、十回で四百秒近かった。
水曜日。十月二十八日。四十九日だった。
空が白むのを待って、私とアリアは野川を走った。アリアは左腕を三角巾で吊ったまま、ゆっくり走った。最後の百メートルで、アリアは私を抜いた。今度は、転ばなかった。
昼は、千尋さんが卵焼きを焼いた。砂糖は、大さじ一だった。
「兄貴のより、甘くないよ」
アリアは、二切れ食べた。
十二時五十分、書斎に入った。窓ぎわの棚に、懐中電灯を六本並べた。
アリアは、紺の外套を着ていた。九月に来たときのものだった。左の肘に、古い繕いの跡があった。カイが縫った跡だった。千尋さんは、そこには触らずに、ほかのほつれだけを繕っていた。腰に、剣を下げていた。
「もし、私が戻らなくても」
アリアは言った。
「了を、打ってください。三つ目です」
「覚えてる」
一時ちょうどに、アリアは画面の前に立った。右の手のひらを当てた。指が、入った。手首まで入ったところで、アリアの肩がこわばった。
「冷たい?」
「……冷たいです。でも、動きます」
私は、アリアの左の袖をつかみかけて、やめた。九月は、二人で引き抜いた。今日は、引かない。
アリアは、振り向いた。
「行ってきます」
この家で覚えた言葉だった。
「……行ってらっしゃい」
腕が、肩が、入っていった。赤い三つ編みが、最後に消えた。
画面の前には、もう、誰も立っていなかった。ゆずが、口を押さえていた。千尋さんは、画面を見たまま、一度だけ大きく息を吐いた。
私は、父の椅子に座った。
一行目。アリアは、ノクスの手首に刃を当てた。
声に出して読んだ。ゆずが読んだ。千尋さんが読んだ。百数えて、句点を押した。黒いままだった。
アリアがどう動いたのかは、見えなかった。分かるのは、字が残ることだけだった。残れば、向こうでそれが起きた。たぶん。
百を数えるあいだ、私は画面の、字のない白いところを見ていた。そこに、塔の上がある。灰が北から吹いている。カイがいる。アリアがいる。
二行目。ノクスの手が、カイの肩から離れた。通った。
九行目。ノクスの影は、東の胸壁まで退いた。通った。
十四行目。カイは台座の左に立ち、外套の腕を前に出した。通った。
アリアが話してくれたとおりの塔だった。話してくれたとおりにしか、私には書けなかった。
二十行目。アリアは、鐘のほうへ歩きだした。通った。
二十七行目。アリアは、剣を両手で持った。通った。
三十三行目。鐘の縁は、アリアの胸の高さにあった。
ゆずが、そこで止めた。十巻に、鐘の大きさが書いてあった気がする、と言った。付箋のないページを、一枚ずつめくった。千尋さんは、十二巻のプリントをめくった。二十分かかった。どこにも、書いていなかった。書かれていないことなら、通る。句点を押した。通った。
一行が、四分では終わらなかった。読むたびに、三人とも、どこかで止まった。止まったところは、もう一度読んだ。
窓の外が、赤くなりはじめた。
「間に合わないかも」
千尋さんが言った。
「急がない」
私は言った。急いだから、左腕を振り上げさせた。急いで間違えたら、それは向こうのアリアに起きる。
千尋さんは、何も言わずに懐中電灯を二本取って、一本をゆずに渡した。四時半から、二人は画面と私の手元を照らした。
三十八行目。ノクスの影が、もう一度、東の胸壁から伸びてきた。カイが外套の腕で受けた。通った。
四十一行目を打ったのは、四時四十四分だった。アリアは、鐘の前に立った。通った。
千尋さんが手帳から封筒を抜いて、端を破った。ルーズリーフを、私の目の前に広げて持った。
四時四十七分。
光の当たっている画面の黒いところから、手が出てきた。指が長かった。影よりも濃い黒だった。爪の先から、灰がこぼれていた。光の中で、手は遅かった。でも、止まらなかった。
手は、まっすぐ私の右手に来た。
毎晩、そうだった。四十日、そうだった。私は右手を胸に引いて、左腕を前に出した。
手は、左の手首をつかんだ。
冷たい、というより、そこから先がなくなった。腕時計の秒針が、止まった。
ゆずが、二本の光を手に寄せた。手は、離れなかった。ゆっくり、私の腕を画面のほうへ引いた。千尋さんが、懐中電灯を置いて、私の肩をうしろから抱えた。
ノクスに触れた者は、触れたところから凍る。一巻の、グラムの言葉だった。白いものが、手首から肘へ、少しずつ上がってきた。
光の中では、手は遅い。放して右をつかみ直すより先に、打ち終える。
右手を、キーボードに置いた。かぎかっこだけは足す、ときのう二人で決めてあった。変換は、しなかった。
かいへ
ひじを ぬってくれて、ありがとう。
あのよる、いえませんでした。
ぐらむの ちょうめんで、しるしの ない なまえは、わたしだけでした。
だから、わたしが ならします。
だまっていて、ごめんなさい。
あなたの いいたいことを、わたしは まだ きいていません。
わたしは、あなたと あるいた みちが、すきでした。
ありあ
一字ずつ、人差し指で打った。一行ずつ、声に出して読んだ。
百を数えるのは、やめた。手紙が向こうでどう届くのかも、分からなかった。待ったほうがいいのかもしれなかった。でも、数えていたら、肩まで凍る。分からないまま、次の行を打った。
ゆずの声が、途中から震えていた。千尋さんの腕が、私の肩で少し強くなった。
すきでした、の句点を押した。ありあ、と打って、かぎかっこを閉じた。
字は、黒いままだった。
白いものは、肘を越えていた。左手の指は、もう、どれも動かなかった。
あとは、鐘だった。