第26話 法要
2026.10.20
十一時に、お坊さんが来た。
仏間に座ったのは四人だった。千尋さんと、私と、葛西さんと、アリア。母は、福岡から白い花を送ってきた。
アリアは、千尋さんの黒いスーツを着ていた。袖が少し短かった。左腕は、上着の下で三角巾に吊っていた。赤い三つ編みは、千尋さんがうしろで一つにまとめた。
お坊さんは、アリアを見て、少しだけ目を止めた。千尋さんが「親戚の子です」と言った。葛西さんは何も言わずに、アリアの吊った左腕を一度だけ見た。
お経のあいだ、アリアは背筋を伸ばして座っていた。一度も足を崩さなかった。立ち上がるとき、少しよろけた。
焼香の順番が来た。アリアは右手だけで香をつまみ、額の前まで上げて、落とした。私がやったのを、そのまま真似していた。
それから、手を合わせられないことに気づいたように、右手を胸の前で止めた。少し考えて、右の拳を、左の胸に当てた。鐘守の礼だった。
アリアの唇が動いた。声は出ていなかった。
お父さん、と動いたのが、私の席から見えた。
昼すぎに、お坊さんと葛西さんが帰った。千尋さんは、夜勤明けのまま法要に出ていたので、居間のソファで眠った。
アリアは、スーツの上着だけ脱いで、仏間に残っていた。遺影の前に正座していた。
私は、隣に座った。
「答え、聞いてもいい」
アリアは、遺影を見たまま、うなずいた。
「お父さんは、まだ決めなくていい、と書きました。だから、私が決めます」
アリアは言った。
「条件が、三つあります」
アリアは言った。
「一つ。鐘は、私が鳴らします。鳴らさずに済む結末を、ことりさんは探さないでください」
「……うん」
「二つ。カイに、言いたいことがあります。紙に書きます。封をして、ことりさんに預けます。鐘の前で、ことりさんは封を開けて、一字も変えずに打ってください。ことりさんの言葉にしないでください」
アリアは、少し息をついた。
「三つ。この世界から消えた、までは書いてください。その先は、何も書かないでください。死んだ、も。生きていた、も。どこへ行った、も。私が戻ってこなくても、了、を打ってください」
私は、すぐには答えられなかった。
「消えたアリアは生きていた、なら」
言いかけた。
「場所を書かなければ、たぶん、通る。エルセンに留まる、じゃないから。試してないけど。それなら、少なくとも」
「書かないでください」
アリアの声は、大きくなかった。でも、私の言葉はそこで止まった。
「理由を、言います」
アリアは、右手を膝の上で開いた。
「最初の日に、背を向けているあいだに、私の右手が上がりました。九巻の夜に私が決めたことも、お父さんが書いた夜のことでした」
アリアは、左腕の三角巾に、右手で触れた。
「二日前の夜、私は眠っていて、左腕で剣を振り上げました。向こうでは、私が振り上げたことになっています」
アリアは、遺影を見上げた。
「鳴らすと決めたのが、私だったのかどうか。もう、分かりません。だから、鳴らしたあとのことは、私が決めます。誰にも書かれないところで」
アリアは、少し黙った。
「生きたい、は、今も、あります」
声が、少しだけ揺れた。
「書いてもらえば、と思います。書いてもらわずに鳴らすのは、怖いです。どちらも、本当です。それでも」
「生きてる、って書くのは」
私の声は、少し高くなった。
「守るってことで。あんたの人生を決めることじゃない。死ぬかもしれないところに、一行、置いとくだけで」
アリアは、私のほうを向いた。
「そうかもしれません」
アリアは言った。
「でも、それを決めるのも、私にさせてください」
その言い方を、私は知っていた。
十日前の朝、野川の土手で、私はアリアに言った。書いたら、それは私が笑わせたことになる。
「……納得は、してない」
私は言った。
「でも、アリアが決めたなら。それでいい」
アリアは、うなずかなかった。ただ、遺影に向き直って、もう一度、右の拳を胸に当てた。
「手紙は、ひらがなで書きます。ことりさんは、読まないでください。打つときまで」
帰る日は、二人で決めた。
二十七日の夕方に、千尋さんが抜糸する。振れるかどうかは、そのときに見る。点滅が止まるのは、二十八日の夜。だから、帰るのは二十八日の昼。
二十八日は、四十九日だった。
日没は、四時四十七分だった。
ゆずが、電池を二十本と、家にあったランタンを三つ持って、三時に来た。十一日に置いていった三つと合わせて、六つになった。起きた千尋さんに、私は言った。影の数は、このところ減っていた。大きいのも、来なくなった。でも、点滅はもう一分に四回くらいしかない。今夜、何が来るかは分からない。千尋さんは「今夜は休み」とだけ言って、懐中電灯を一本受け取った。
法要のあとで、居間と仏間のあいだの襖を外した。居間から仏間、廊下、また居間へと、一階をひと回りできる。光の中を私が逃げて、アリアが鞘で払う。十四日に二人で決めたことを、一階じゅうでやるためだった。
四時五十分、二階の書斎から音がした。床を、たくさんの爪が引っかく音だった。
一匹ではなかった。
階段の上から、影が流れ落ちてきた。十五か、二十。全部、犬くらいの大きさだった。大きいのは、いなかった。数は減ってきていたはずだった。また、合わなかった。
先頭の一匹が鳴いた。家じゅうの電灯が、一度に消えた。
居間は、ランタンの光だけになった。床に六つ。私は、その輪の真ん中に座った。右手を、膝の下に入れた。
影は、廊下から、居間の戸口に集まってきた。千尋さんが戸口に、ゆずが仏間の側に、懐中電灯を向けた。光の筋の中で、影は泥の中を歩くように遅くなった。止まりはしなかった。
アリアは、戸口と私のあいだに立った。右手だけで、ルクスを構えていた。
アリアは、すぐには斬らなかった。光を抜けて、剣の届くところまで来たものだけを斬った。残りは、光の中で遅くさせておいた。
「夜は、長いです。刃を、残します」
斬るたびに、アリアは口の中で数を言った。三十分に一つ。一時間に一つ。影は、光の縁で押し合いながら、少しずつ前に出てきた。
一分ほどで、電灯が戻った。すぐに、どれかが鳴いて、また消えた。点いたり消えたりするたびに、影の位置が分からなくなった。三度目に、千尋さんが分電盤を開けて、照明の回路だけを落とした。コンセントの回路は残した。書斎のパソコンは、そっちにつながっている。
十時前に、アリアは十と言った。刃から、白い光が消えた。
影は、まだ八匹いた。
「逃げます。家じゅうを、明るくして」
ランタンを、居間と仏間と廊下に二つずつ置き直した。床からの光が、天井まで届いた。一階のどこにいても、影は光の中にいる。どこにいても、遅い。そして、どこにいても、見える。
私は懐中電灯を一本持って、立った。
居間から、仏間へ。仏間から、廊下へ。廊下から、居間へ。一周、二十六歩。
影は、光の中で、私の歩く速さより少し遅かった。うしろから来るものは、追いつけない。前から来るものは、遠くから見える。見えたら、向きを変える。止まらなければいい。
三千の後半と同じだと思った。速さは要らない。同じ速さを、ずっと守る。
一匹が、天井を伝ってきた。天井でも、光の中では遅かった。真下に入る前に、私は二歩、前に出た。落ちてきた影を、アリアが鞘で払った。払うのは、いつも群れのいるほうへ。影は畳の上を転がって、群れの中に戻った。斬れなくても、押し戻すことはできた。
千尋さんは群れのうしろから、ゆずは私の前から、光を当てつづけた。電池が切れそうになると、ゆずが歩きながら一本ずつ替えた。替えるあいだは、千尋さんがそちらへ光を向けた。
電池を替えながら、ゆずが小さい声で訊いた。
「ことりん。最後、どうするか、決まったの」
「アリアが、決めた」
それ以上は言わなかった。三つ目の条件を、ゆずに言うかどうかは、私が決めることじゃなかった。
ゆずは、アリアの背中を見た。
「そっか」
ゆずは懐中電灯を握り直した。手が、少し震えていた。
二時を過ぎると、足が重くなった。向きを変えるたびに、膝が遅れた。誰も座らなかった。千尋さんは、一度だけ、私の顔を見た。
「信じたわけじゃないよ」
懐中電灯を群れに向けたまま、千尋さんは言った。
「でも、これは、見た」
三百周を少し越えたところで、カーテンの端が白くなった。五時五十分だった。影は、光の筋の中で、灰みたいに崩れて、消えた。
六時に、二階へ上がった。書斎の画面は、まだ点いていた。
いつもの時間ではなかった。それでも、腕時計のストップウォッチを押した。
十回で、百五十八秒。
一分に、四回もなかった。
アリアは、書斎の戸口に、黒いスーツのズボンのまま立っていた。剣の刃は、朝日でまた白くなりはじめていた。
「ことりさん」
アリアは言った。
「紙を、ください。ひらがなの練習に使っている、線のある紙を」