第25話 消える、の意味
2026.10.20
十時半に、書斎の押し入れを開けた。
手前の段ボールは、九月にファンレターを出したときに動かしていた。その奥に、テープを切っていない箱が四つあった。どれにも、あの人の字で年が書いてあった。一番古いのは、十一年前だった。
「起きていても、いいですか」
アリアが戸口で言った。今朝、アリアが自分で出した条件だった。書くときは、自分が起きていて、私の手の横にいる。今夜は書かない。それでも、アリアは来た。
「書かないよ。箱を開けるだけ」
「はい。それでも」
アリアは丸椅子を引いてきて、私の横に座った。左腕は三角巾で吊ったまま、右手で、私が出した紙の束を受け取った。
「日付のあるものと、ないもの。分けてくれる?」
アリアは、紙の右上を見た。数字は読める。ひらがなも読める。漢字の多い紙は、読めないまま、日付だけで分けていった。
一つ目の箱は、資料だった。鐘の写真の切り抜き。古い塔の間取り図。二つ目は、手紙の封筒の束。三つ目は、校正の紙だった。二巻、三巻。赤いペンの字が、余白にびっしり書いてあった。
時計が、二時を回った。
アリアは一度も目を閉じなかった。ときどき、紙を持った右手が止まって、自分の膝を叩いた。眠らないように、と私は思った。
「寝てきなよ。今夜は書かないんだから」
「書かない夜でも、起きていたいのです。眠っていると、何が起きても、私は知らないままです」
アリアは、次の束を右手で受け取った。
四つ目の箱の一番下に、クリップで留めた厚い束があった。
表紙の紙に、印刷の字で「七つ鐘のアリア 一 再校」とあった。その横に、あの人の字で、日付が書いてあった。二月の終わり。十一年前の冬だった。
一ページずつ、めくった。
赤い線は、少なかった。誤字の直しがいくつか。句読点がいくつか。四十ページの近くで、手が止まった。
焚き火の場面だった。グラムが、カイとアリアに掟を語る。
印刷の字は、こうだった。
――七つ目の鐘を鳴らした者は、死ぬ。そのかわり、夜は明ける。
「死ぬ」の上に、赤い線が二本、引いてあった。
その横に、あの人の字で、
――この世界から消える。
と書いてあった。
余白の下のほうに、もう一つ、字があった。赤いペンではなかった。鉛筆の、薄い字だった。
――まだ決めなくていい。
しばらく、その三つの書き込みを見ていた。
柳さんは、言い方を柔らかくしただけだ、と言った。あの人自身が、そう言っていた、と。
それなら、赤いペンだけでいい。「死ぬ」を消して、「この世界から消える」と書く。それで、柔らかくなる。
でも、あの人は、鉛筆でもう一行書いていた。まだ決めなくていい。
柔らかくするだけなら、決める、という言葉は要らない。決めなくていい、と書いたのは、決めていたものを、決めないことにしたからだ。少なくとも、私にはそう見えた。何を決めなくていいのかは、どこにも書いていない。でも、このゲラで直してあるのは、誤字のほかには、この一行だけだった。
あの人は、一度、死ぬ、と書いた。それを、本になる前の晩に、自分の手で消した。
一巻からずっと、読者が読んできたのは、消える、のほうだった。正典に、死ぬ、はない。最初からなかったのではなく、あの人が消した。
「何と、書いてあるのですか」
アリアが訊いた。声が、少しかすれていた。ずっと黙っていたせいだった。
私は、声に出して読んだ。印刷の字。二本の線。赤い字。鉛筆の字。順番に。
アリアは、紙を見なかった。私の顔を見ていた。
「グラムは、消える、と言いました」
アリアは言った。
「焚き火の向こうで、火の粉を払いながら。カイが薪を足していました。グラムの声は、低かったです。死ぬ、とは、一度も」
その夜のことを、アリアは細かく覚えている。書かれた夜だからだ。書かれたのは、赤い字のほうだった。
「もし、直さなければ」
アリアは、そこで言葉を切った。右手で、自分の膝をつかんでいた。
「グラムは、死ぬ、と言ったのですね。私に」
「たぶん」
アリアは、長く黙っていた。
「九巻の夜、私は、鳴らして消えると決めました。石の前で、朝まで座って」
アリアは言った。
「消える、は、死ぬ、ことだと思っていました。グラムの顔を見て、そう分かりました。それでも、死ぬ、と、グラムの声で言われていたら。同じように決めたのか。私には、分かりません」
それから、首を振った。
「いいえ。たぶん、決めました。カイたちのためなら。でも、それを、たぶん、としか言えないのが」
アリアは、そこで止めた。続きは言わなかった。
一つだけ、分からないことがあった。
日付は二月の終わりだった。あの人が私に、クリップで留めた紙の束を読んでくれたのは、その冬だった。私は六歳だった。
あの人は、焚き火の場面を、どう読んだのだろう。死ぬ、と読んだのか。消える、と読んだのか。それとも、そこは飛ばしたのか。
思い出そうとした。紙をめくる音と、あの人の声の低さは、なんとなく覚えている。言葉は、一つも出てこなかった。
探しても、何も出てこなかった。忘れたのか、聞いていなかったのか、それも分からない。
訊く相手は、もういない。
私は、父の手帳の空いたページに、鉛筆で書いた。
一、本の中に、死ぬ、はない。あの人が、校了の前の晩に消した。
二、でも、十一年後のメモには、死ぬ、と書いてある。新しいのは、そっちだ。あの人は、最後には、死ぬ、を選んだのかもしれない。
二番目の行を、私は消さなかった。
柳さんの言うとおりかもしれない。あの人の意図は、死だった。迷ったあとで、そこに戻った。それは、認める。
それでも、本の掟として確かなのは、消える、だけだ。死んだ、と打ったら通るのかも、生きていた、と打ったら通るのかも、私は試していない。小石は、夜明けに来た。人が来るのかは、分からない。
分からないまま、あの人の意図と違う結末を、私が選びたい。
三、と書いた。
三、私は、死んだ、とは書きたくない。
鉛筆の先が止まった。書かない、とは書けなかった。
木曜に、アリアは言った。死んだ、と書くかどうかを決めるときは、その前に訊いてください。私は、うん、と答えた。訊かれたら何と答えるつもりなのか、訊かなかった。
書きたくない、と決めるのは、私だ。書くかどうかを決めるのは、私一人じゃない。生きていた、と書くかどうかも。私の文は、この体に起きる。金曜の夜に、それを見た。
四、アリアに訊く。死んだ、も。生きていた、も。
窓の外が、白くなりはじめていた。五時四十分だった。
「アリア」
アリアは、丸椅子の上で背筋を伸ばした。ゆうべから、一度も寝ていなかった。
「私は、死んだ、とは書きたくない。あの人の意図と違っても。それは、私の考え」
アリアは、私の顔を見ていた。
「でも、決める前に訊く、って約束した。だから、訊く。アリアは、どうしたい」
アリアは、すぐには答えなかった。ゲラの四十ページを、右手で押さえていた。
「お父さんは」
アリアは言った。
「迷ったのですね。一度でも」
「うん」
「鳴らすことは、決めています。そのあとのことが、まだ、言葉になりません」
アリアは、ゲラをそっと閉じた。
「答えは、お父さんに手を合わせてからにさせてください。迷った人の前で、一度、考えたいのです。今日は、法要なのでしょう。私も、出たいです」
「……分かった」
七時に、千尋さんが夜勤から帰ってきた。書斎の床いっぱいの紙を見て、何も訊かずに、二人分のコーヒーを置いていった。