confabulations

未完のヒロイン

第24話 校了前の晩

2026.10.20

柳さんは、七時ちょうどに玄関のチャイムを鳴らした。

黒いタートルネックに、薄いコートを着ていた。手に、白鷺書房の茶封筒を持っていた。

葛西さんは来なかった。電話で、私が行ったらどっちの味方もできへんから、と言った。

影は、もう出たあとだった。五時一分に五匹。アリアは右手だけで五回斬った。ゆずは六時半に帰った。

柳さんが来ると話したとき、アリアは自分で決めた。

「私は、台所にいます。戸は開けておいてください」

「一緒に聞かないの」

「あの人は、私の顔を見ると、何か言いかけて、やめます。神保町でも、そうでした」

アリアは言った。

「やめないで話すのを、聞きたいのです。本の中の私のことを、あの人が、どう言うのか」

玄関で、柳さんはアリアに気づいた。アリアは私の後ろにいた。父のトレーナーに、左腕を三角巾で吊っていた。

「神保町で会った、親戚の」

「アリアです」

アリアは頭を下げた。名前を聞いても、表情は変わらなかった。この格好でその名前を名乗る子だと、九月から思っているのだと思う。

居間のテーブルで、柳さんは封筒からプリントの束を出した。葛西さんに送った写真を、印刷したものだった。一番上に、あの人の最後の一文があった。

アリアは剣を抜き、アリアはくしゃみをした。

「この、くしゃみは」

柳さんは、そこを指で押さえた。

「君が書いたのか」

「最初に、私が打ちました」

嘘ではなかった。

「消さなかったんだね」

「消さないことにしました」

それも、嘘ではなかった。消せないことを、消さないことにした。

柳さんは、黙って読み進めた。

最後の紙を置いて、柳さんは言った。

「くしゃみは寒さ、右手は風、まばたきは灰。小石は拾っていない。拾わなくていい。あれは、掟の前触れに読める」

「葛西さんから、冬木さんのメモどおりに書くと聞いた。どんなメモかは聞いていない。でも、ここまでの運びは、僕が聞いていたプロットと同じだ」

柳さんは、プリントの束をそろえた。

「冬木さんの意図どおりだ」

褒められたのだと分かるまで、少しかかった。

木曜の夜には、それが欲しかったのだと思う。あの人の椅子で、あの人のとおりに書く。誰かに、そのとおりだと言ってほしかった。

今は、ゆうべの包帯の赤い色のほうが、先に浮かんだ。


私は、膝の上で手を握った。

「死んだ、とは書かないかもしれません。この世界から消える、までは書きます。グラムの言葉も、消える、です」

柳さんは、すぐには答えなかった。

「三つ、言わせてほしい」

柳さんは、指を一本立てた。

「一つ。消える、は死の婉曲だ。一巻から、作中の誰もがそう受け取ってきた。読者もそう読んできた。冬木さん自身が、最終巻は喪失の話になる、と言った」

「消えて、どこかで生きてても、カイには二度と会えないかもしれない。エルセンにも戻れない。それも、喪失じゃないんですか」

柳さんは、少し考えた。

「喪失だ。ただ、生きている、と一行でもあれば、読者は生きているほうを読む。カイに会えないことは、その次になる」

「初代の鐘守は、鳴らして消えた。グラムは、鐘の秘密を守って死んだ。どちらも、鐘のために、いなくなった。読者は十一年、これを、鐘のために誰かがいなくなる話として読んできた。最後の一人だけが、いなくならずに済めば、作者が手加減したと読まれる」

「いなくなります。カイのところから。カイが言いかけたことも、聞けないまま」

「それを書くなら、喪失の話になる。でも、君は、それを書けるのか。消えたあとの、どこかを」

私は、答えなかった。書けない。行き先は、書けない。それを、この人には言えなかった。

「死ぬ、とは、どこにも書いてないのに」

「書いていないから、婉曲なんだ。子どもも読む本だ。死ぬ、と書かずに死を書く。冬木さんは、そういうことが上手かった」

「あの人、最初から、消える、って書いてたんですか」

柳さんは、テーブルの上で手を組んだ。

「冬木さんは、迷わない人だった。どう書くかでは、よく迷っていた。でも、一度書いた言葉を、本になる直前に直したのは一度だけだと、本人から聞いたことがある。一巻の校了前の晩だそうだ。夜中の二時に、グラムの台詞を一行だけ直した」

「どう、直したんですか」

「言い方を柔らかくしただけだ、と言っていた。中身は変えていない、と。僕は、それが、消える、だと思っている。死を、柔らかく言い換えた。だから、婉曲だ」

神保町で、柳さんは、まだ決めきれていないところがある、とも言っていた。そう言うと、柳さんは首を振った。

「迷っていたのは、どう書くかだと、僕は思っている。死なせるかどうかじゃない。喪失の話になる、という言葉は、一度も変わらなかった」

「その、直した紙は」

「ゲラは、冬木さんが持って帰ったと聞いた」

この家のどこかにある。私は、そう思った。

二本目の指が立った。

「二つ。グラムは五巻で、鐘の秘密を守って死んだ。鐘は必ず代償を取る。十一年、読者はそれを読んできた。最後の一人の代償を、作者が軽くすれば、グラムの死が安くなる」

三本目。

「三つ。死んだ人の文章は、死んだ人が反論できない。だから、残った者は、その意図に一番忠実でなければいけない。君が書き換えても、冬木さんは、違う、と言えない」

「柳さんの原稿にも、言えません」

「そうだ。だから僕は、意図どおりに書いた。君は、意図と違うことを書こうとしている。冬木さんが言えないのを、知っていて」

柳さんは、手を下ろした。

「葬式から一か月半で、一度も書いたことのない娘が、締切の六日前に、代筆を断って自分で書くと言った。そのうえで、死なせたくないと言う。僕には、理由は一つしか思いつかない」

柳さんは、私の目を見た。

「書き換えたいのは、君が寂しいからだろう」

私は、口を開けた。

「寂しいのは」

声が、少しかすれた。

「寂しいのは、そうです。それは、認めます」

柳さんは、黙って待っていた。

「でも、それだけじゃ、ないです」

その先が、出てこなかった。

それだけじゃない理由は、ある。台所にいる。左腕を三角巾で吊って、今、お茶をいれている。ゆうべ、私の打った一文で、その腕の糸が切れた。

言えば、柳さんはあのパソコンに触りたがる。九月に、それが怖くて、メモも渡さなかった。それに、アリアは台所で聞くことを、自分で選んだ。そのアリアが誰なのかを、本人に訊かずに、私がこの人に明かすことはできない。

私は、言わなかった。言わないと決めたら、言い返す言葉が、もう残っていなかった。


アリアが、お盆を右手だけで持って、居間に入ってきた。湯のみが二つ。少し揺れていた。

「どうぞ」

アリアは、柳さんの前に湯のみを置いた。

「ありがとう」

柳さんは、アリアの顔を見た。九月に神保町で会ったときと同じ目だった。何か言いかけて、やめる目だった。

「その腕は」

「転びました」

アリアは言った。嘘だった。

柳さんは湯のみを両手で持った。一口飲んで、置いた。それから、私のほうを見た。アリアは、まだテーブルの横に立っていた。

「君の文章は、まだ荒い。主語の続くところは、僕なら直す。でも、町のあったところは暗かった、という一文はいい。見えないものを、見えないまま書いている。冬木さんの書き方だ。だから言う」

柳さんの声は、静かだった。

「アリアは、死ぬべきだ」

湯のみの中のお茶が、少しだけ揺れた。アリアの手は、もうお盆の縁にあった。動かなかった。

アリアは小さく頭を下げて、台所に戻った。

「あの子の、前で」

私が言うと、柳さんは台所のほうを見た。

「アリアが好きなんだろう。その髪も、頬の傷も、わざわざ似せている。好きな読者ほど、分かってくれる。一巻から、ずっと覚悟して読んできたはずだ」

ゆずが言ったのと、ほとんど同じ言葉だった。ゆずは、そのあとに、両方思う、と言った。柳さんは、それを知らない。

違う、と言えば、何が違うのかを言わなければならない。私は湯のみを持って、冷めかけたお茶を飲んだ。

柳さんは、九時前に帰った。


台所に行くと、アリアは流しの前に立っていた。湯のみを右手で洗っていた。

「聞いてた?」

「はい」

アリアは蛇口を止めた。

「あの人は、グラムを大事にしていました」

アリアは言った。

「グラムの死を、安くしたくない。それは、私も同じです」

私は、何も言えなかった。

「でも、あの人が、死ぬべきだと言ったのは、本の中の私です」

アリアは、濡れた右手を見た。

「それと、ここにいる私が、同じなのかどうか。私には、まだ、分かりません」

十時に、点滅を測った。十回で、百八秒五〇。一分に、五回と少し。

書斎の押し入れには、ファンレターの箱を出したあとも、奥にまだ段ボールが残っていた。テープを切っていないものが、いくつか。

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