第23話 書くということ
2026.10.20
金曜の放課後、四時二分に書斎に入った。
父の椅子に座って、手帳を開いた。ゆうべ、アリアから聞いた段取りを、私は手帳に文の形で下書きしていた。鉛筆で、一行に一文。アリアが出てくる行の頭には、丸を付けた。丸の行は、アリアが向こうへ帰ってから打つ。
段取りは、二人で決めた。カイは台座の左。アリアはカイの右に立つ。ノクスの手は東の胸壁から、カイの肩の上へ伸びてきて、一拍止まる。アリアから見ると、左の上だ。
「右手で柄を持ったまま、左腕で振り上げて、手首に刃を当てます。右から回すと、カイに当たります」
アリアはそう言った。私は、左腕は縫ったばかりだと言った。
「二十八日には、糸は抜けています」
それで、丸の行に、左腕と書いた。
丸のない行から、打っていった。
カイは灰の向こうに、ノクスの影を見た。
通った。
カイは外套を左腕に巻いた。
通った。素手で触れたところから凍る。グラムがそう教えていたから、カイは素手では払わない。ゆうべ、アリアが言っていた。
胸壁の向こうに、エルセンの町の灯が見えた。
句点を押した瞬間、字が薄くなった。灰色になって、一秒で消えた。
戸口の床に座っていたアリアが、顔を上げた。左腕は、包帯の上から三角巾で吊っていた。
「町の灯が見えた、って打ったら、消えた」
「見えません」
アリアはすぐに言った。
「夜のあいだ、町に灯はありません。夜が、呑みます。塔の上から見えたのは、暗いところだけでした」
四時半に来たゆずに訊くと、ゆずは鞄から一巻を出して、すぐに開いた。
「『夜は町の灯を呑む』。一巻の最初のほう。グラムの台詞なんだよ」
文を直した。
胸壁の向こうの、町のあったところは、暗かった。
通った。
日没の三分前に、アリアに言われて居間へ下りた。
五時一分、影が出た。六匹。アリアは右手だけで六回斬った。
六時から九時までの三時間で、十一行打った。通ったのは、七行だった。
灰色になった四行には、どれも理由があった。一つは、カイの剣の長さが二巻と違っていた。一つは、塔の階段の数が十二巻の前半と合わなかった。ゆずが付箋のページを探し、アリアが向こうの景色を言い、私が文を直す。一行通すのに、三十分かかることもあった。
ゆずは九時に帰った。帰りぎわ、玄関で一度だけ振り向いた。
「ことりん。メモのとおりに書いてるんだよね」
「うん」
ゆずは、居間にいるアリアのほうを見た。それから、「そっか」とだけ言って、靴を履いた。
書斎に戻ると、机の端に、ラップをかけた皿があった。千尋さんの焼きそばだった。今日は夜勤が休みで、六時に一度、戸口から声をかけたらしい。私は返事をしたそうだ。覚えていなかった。
焼きそばは冷めていた。
あの人は、毎晩、六時に夕飯を作った。食べ終わると二階に上がって、朝まで出てこなかった。昼は寝ていた。私はそれを、私と話さないための生活だと思っていた。
声をかけられて、返事をして、覚えていない。あの人も、二階でそうだったのかもしれない。だから、作ってから書いたのかもしれない。
それでも、食卓で、あの人はほとんど話さなかった。それは、これでは説明がつかない。
冷めた焼きそばを、全部食べた。
十時に、点滅を測った。十回で、八十七秒三〇。一分に、七回もない。
アリアは、書斎の壁際に座っていた。剣は鞘ごと、すぐ横の壁に立てかけてあった。私の手が見える位置だった。書いているあいだは見ている、とアリアが自分で言ったのだった。
十二時に、そこまでを印刷して、写真を葛西さんに送った。返事はなかった。
一時を過ぎると、アリアの頭が、ときどき前に落ちるようになった。傷の痛みで、ゆうべもあまり眠っていない。
「寝てていいよ。アリアのことは、書かないから」
アリアは少し迷ってから、うなずいた。壁に背中をつけて、目を閉じた。右手が、立てかけた剣の鞘に触れていた。
私は、打ちつづけた。
手帳の行を、一つずつ画面に写していく。この一時間、灰色は一度も出ていなかった。最初のころは、句点の前で手を止めて、もう一度読んでから押していた。それをしなくなったのが、いつからか、覚えていない。打って、句点を押して、次の行。手が、その速さを覚えていた。
三千の後半と同じだった。ラップを見なくなって、足だけが前の周の速さで回っている。
カイはノクスの手を外套の腕で受け、台座へ一歩下がった。
通った。
ノクスの手が、カイの肩の上で一拍止まった。
通った。アリアが言っていた、一つ数えるくらいの間だった。
次の行を見て、打った。
アリアは左腕で剣を振り上げた。
句点を押した。
後ろで、布のこすれる音がした。
振り向いた。
アリアの左腕が、三角巾から抜けていた。左手が、壁の剣の柄をつかんでいた。鞘が床に倒れて、抜き身の剣が、左腕ごと頭の上まで上がっていた。アリアの目は、まだ閉じていた。
段取りでは、柄を持つのは右手だった。眠っているアリアの右手は、鞘の上にあった。文には、左腕で振り上げた、としか書いていない。だから、左手が柄をつかんだ。
頭の上で、腕が止まった。そこで、アリアの目が開いた。
包帯に、赤いものがにじんでいった。
手帳を見た。今打った行の頭に、丸が付いていた。
画面を見た。字は、黒いままだった。
アリアは腕をゆっくり下ろした。剣を床に置いた。それから、右手で左腕を押さえた。
私を見た。
「……今、私に、何をしたのですか」
一か月と少し前、同じことを、同じ声で訊かれた。
「ごめん」
それしか、出てこなかった。
「書いた。丸を、見落とした」
千尋さんは、二時十五分に起きてきた。何も訊かずに包帯を切った。縫った糸が一本、切れていた。傷の縁が、少し開いていた。
「何したの」
「私が、打った」
千尋さんは、私の顔を一度だけ見た。それから、救急箱から針と糸を出した。
アリアは声を出さなかった。一針、縫われるあいだ、右手で自分の膝をつかんでいた。
「切れたのは表の一本だけ。奥は開いてない。抜糸は二十七日のまま。抜いても、二十八日に振れるかは別。それは二十七日に見て決める。でも」
千尋さんは糸を切った。
「もう一回やったら、二十八日には間に合わないよ」
土曜の朝、私は父の椅子に座って、画面を見ていた。
アリアは左腕で剣を振り上げた。
消せない。この文は、最終巻に残る。ノクスの手が止まった一拍に、アリアは剣を振り上げた。そう読まれる。
九月に交わした約束を、私が破った。眠っている人の腕で。
鐘のあとに、死んだ、と打てば。それも、壁際で眠っていた、あの体に起きる。
そして、あの人は来ない。
最後の章を全部書いても、春の大会に、あの人は来ない。卵焼きの作り方も、教えてもらえない。終わるのは、アリアだけだ。
手帳の次の行は、丸の付いた行だった。その次も、その次も。ここから先は、アリアがいないと一行も進まない。カイは台座の前にいる。鐘は、まだ鳴っていない。
キーボードから、手を下ろした。
戸口に、アリアが立っていた。左腕は、新しい三角巾で吊っていた。
「向こうでは、私が自分で振り上げたことに、なるのですね」
アリアは画面のほうを見ていた。漢字の混じった字は、読めないはずだった。どの行かは、たぶん、私の顔で分かった。
「最終巻を読む人には」
「……うん」
アリアは、しばらく黙っていた。
「ノクスの手が止まる一拍に、私は、振り上げるつもりでした。段取りのとおりです」
アリアは言った。
「でも、振り上げたのは、私では、ありませんでした」
それから、アリアは私の手を見た。
「これから書くときは、私が起きていて、ことりさんの手の横にいるときだけにしてください。私が眠ったら、起こしてください。眠っている私の横では、一行も書かないでください」
「……分かった」
「丸の行は、私が帰ってからです」
「分かってる」
アリアは、うなずかなかった。戸口から動かずに、私がキーボードから手を下ろしたままでいるのを、しばらく見ていた。
昼前、葛西さんから電話があった。
「ゆうべの写真、読んだ。柳くんにも見せた」
ガムの音がしなかった。
「今晩、そっちへ行きたい言うてる」