confabulations

未完のヒロイン

第22話 父の結末

2026.10.20

木曜の朝、五時に起きて、台所に立った。

手帳を、流しの横に開いて置いた。卵は二つ。砂糖、大さじ二。塩、ひとつまみ。

あの人の字のとおりに量った。砂糖は、すり切りにした。卵を溶いて、砂糖を入れて、箸でかき混ぜた。砂糖が底に沈んで、なかなか溶けなかった。

卵焼き用の四角いフライパンは、流しの下の奥にあった。九月十日から、誰も出していなかった。

油を引いて、卵を流した。焦げた。巻こうとして、破れた。三回巻いて、形になったのは半分だった。

切って、一切れ食べた。

甘かった。

あの人の卵焼きより、ずっと甘かった。口の中に砂糖のざらざらが残った。二切れ目は、食べられなかった。

手帳の字を、もう一度見た。ことりは甘いのが好き。

この字を書いたとき、私はいくつだったのだろう。ページの前後に、日付はなかった。一巻のメモの近くだった。

あの人は、六歳の私が好きだった甘さを、ずっと覚えていたのかもしれない。そして、大会の夜に焼くたびに、少しずつ砂糖を減らしていたのかもしれない。私が何も言わなかったから、自分で。

分からなかった。訊けなかった。

「いい匂いです」

振り向くと、アリアが台所の入口に立っていた。左腕を、体の横につけていた。

「食べる?」

アリアは一切れ食べた。少し黙った。

「甘いです」

それから、もう一切れ食べた。残りも全部食べた。


学校から帰って、書斎に入った。

父の椅子は、九月の朝のまま、机から斜めに引かれていた。救急の人が引いた角度だった。一か月以上、私はその横に丸椅子を置いて、そこに座っていた。

椅子を、机に向けて戻した。

座った。

背もたれが、私の背中より高かった。座面が、少し右に傾いていた。あの人の体の形に、へこんでいた。

肘掛けに、手を置いた。画面が、正面にあった。丸椅子から見ていたときより、少し高かった。あの人は毎晩、この高さで、この画面を見ていた。

手帳を、キーボードの横に置いた。小石の隣に。

『アリアを終わらせる。』

その字を見ていた。

あの人は、これを書いて、書けなかった。一年かけて、最後の章が書けなかった。それでも、決めてはいた。終わらせる。終わらせたら、戻る。

戻ってこない。それは分かっている。

それでも、あの人が決めたことを、あの人の椅子で、あの人の画面に書けば、あの人がやろうとしたことは、終わる。終わらせられなかったのは、あの人だけだ。私なら、終わらせられる。

柳さんの原稿も、あの人の結末だった。上手かった。でも、柳さんが書けば、それは柳さんが終わらせたことになる。あの人のやりかけを、他人の手で閉じられたくなかった。きのう怒ったばかりなのに、そう思った。

小石は、消えて、ここに来た。アリアも、来るかもしれない。

アリアは、生きたい、と言った。一週間前の朝、野川の土手で。転んで、笑ったあとに。

でも、それを書いたら、あの人の結末じゃなくなる。あの人を置いて、私だけ別の終わりを選ぶことになる。

鐘の前までは、どちらを選んでも、書く文は同じだった。違うのは、鐘のあとの一行だけだ。死んだ、と書くかどうか。それは、そこまで書いてから考える。

そう決めて、アリアの声を、頭の奥にしまった。

日野さんの声を思い出した。ことりさんは、どうしたいんですか。

私は、あの人のやりかけたことを、終わらせたかった。


アリアを書斎に呼んだ。

アリアは戸口に立って、父の椅子に座った私を、しばらく見ていた。

「最後の章を、書く」

私は言った。

「あの人の、メモのとおりに。アリアが鐘を鳴らして、この世界から消えるところまで。死んだ、と書くかどうかは、鐘の前まで書いてから決める。でも、あの人が決めた結末に向かって書く」

アリアは、すぐには何も言わなかった。

それから、戸口で、右の拳を左の胸に当てて、頭を下げた。鐘守の礼だった。

「ありがとうございます」

アリアは言った。

「カイたちが、動けます」

顔を上げたとき、アリアの目は乾いていた。

「死んだ、と書くかどうかを決めるときは」

アリアは言った。

「その前に、私に訊いてください」

「……うん」

訊かれたら何と答えるつもりなのか、私は訊かなかった。

それで、いいのだと思った。アリアが望んだのは、最初から終わりだった。私は、それを書く。それで二人の目的が、初めてそろう。

そう思うことにした。


葛西さんに電話した。

「柳さんの原稿、出さないでください。私が書きます。二十八日までに」

電話の向こうで、ガムを噛む音が止まった。

「……ことりちゃん。書いたこと、あるん」

「ないです」

「月末入稿やで。二十八日でも、ぎりぎりや」

葛西さんは少し黙った。

「結末は、どうするん」

「あの人の、メモのとおりに」

「そうか」

ガムの音が、また始まった。

「ほな、条件な。書けたとこまで、毎晩、私に送り。あのパソコンから印刷して、写真でええ。私が読んで、本にならんと思たら、柳くんのを出す。それでええな」

「はい」

「柳くんには、まだ言わん。原稿見てからや」


夜鳴きは、七匹だった。ゆずが居間で懐中電灯を持ち、アリアは右手だけで七回斬った。ゆずは九時に、お父さんの車で帰った。

十時に、点滅を測った。十回で、七十三秒一一。一分に、八回とちょっと。

それから、父の椅子に戻った。

アリアが、私の右、一歩うしろに立った。手とキーボードが見える位置だった。

「アリアのことは、書かない。アリアのいない文だけ書く。それならいい?」

「はい」

12.txtの、最後のページを出した。

アリアは剣を抜き、アリアはくしゃみをした。アリアは右手を上げた。アリアは三回まばたきをした。塔の頂上の小石が一つ、この世界から消えた。

父の一文と、私の四つの文が、並んでいた。続けて読むと、変だった。決戦の途中で、くしゃみをして、手を上げて、まばたきをして、石が一つなくなる。

このまま続けたら、最終巻の読者は、ここで笑う。

消せない。くしゃみの文の前をクリックしてみた。カーソルは一瞬そこに出て、すぐに末尾へ戻った。三回やって、三回とも戻った。前に足すこともできない。書けるのは、後ろだけだ。

なら、後ろに書く文で、前の意味を変える。

塔の頂上。冬。風。灰が舞っている。それを、あとに書く。

寒ければ、くしゃみをする。風が強ければ、顔の前に手を上げる。灰が目に入れば、まばたきをする。

あとから読めば、三つの文は、そこにいる人の体の反応になる。そう思った。

小石は、だめだった。落ちた石は、この世界から消えたりしない。どんな風を吹かせても、消えた石は、消えた石のままだった。

それなら、引っかかったままにしておく。七つ目の鐘を鳴らした者は、この世界から消える。一巻から読んできた人なら、鐘より先に塔の上で何かが消えたことに、その言葉を思い出す。

アリアに、説明した。アリアは画面を見なかった。漢字の混じった文は、まだ読めなかった。でも、聞いて、うなずいた。

「塔の上は、寒かったです。とても」

アリアは言った。

「灰が、ずっと降っていました」

私は、打った。

塔の頂上の風は冷たかった。

句点の前で、手を止めた。腕時計を見た。十時二十二分。

句点を押した。

字は、黒いままだった。五秒。十秒。三十秒。

「通った」

「はい」

アリアが、塔の上のことを話しはじめた。私は手帳の空いたページに書き取った。

カイは鐘の台座の左、三歩のところにいた。ノクスは東の胸壁の上。手は、カイに向かって伸びていた。鐘は、台座の上にあった。今度の夜が来てから、まだ一度も鳴っていない。灰は北から吹いていた。

「ノクスの手は、届く前に、いつも一度止まります。獲物を見るように。その間が、一つ数えるくらい」

アリアは、それを戦いの段取りとして言った。私はそれを、文にする。

二つ目の文を打った。

北からの風が、灰を巻き上げた。

通った。

三つ目。

崩れかけた胸壁から、石が一つ、転がった。

通った。

最後のページを、頭から続けて読んだ。

くしゃみは、冷たい風のあとに読めば、寒さのせいに読めた。右手は、まだ少し唐突だった。三回のまばたきは、灰を足しても、三回のままだった。アリアが四回続けて主語になるぎこちなさも、消えなかった。

思ったほどには、直らなかった。それでも、さっきよりは、笑われない。

アリアのことは、一文字も書いていなかった。それでも画面の中で、塔の上の時間が、少しずつ進んでいるはずだった。見えるのは、黒いままの字だけだった。

私は、次の文を考えた。父の椅子の背もたれに、背中をつけた。あの人の体のへこみに、私の背中は合わなかった。

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