第21話 黒い手帳
2026.10.20
水曜の朝は、走らなかった。
アリアの左腕には、千尋さんの巻いた包帯があった。走れば腕を振る。振れば、傷が引っぱられる。アリアは玄関で父の靴を見て、履かずに戻した。
朝ごはんのあと、千尋さんがアリアの包帯をほどいて、傷を見た。私は横で見ていた。
縫い目のまわりの縁が、まだ白かった。千尋さんは指の背で、そっと触った。
「冷たい」
千尋さんは言った。
「一晩たって、まだ冷たい。膿んでもない。赤くもなってない。こんな傷、見たことない」
千尋さんは包帯を巻き直した。それから、私の顔を見ないで言った。
「こと。学校、行ってきな。帰ってきたら、一個だけ試させて」
何を、とは訊かなかった。
学校から帰ると、千尋さんが書斎にいた。
父の椅子には座っていなかった。私の丸椅子に座って、画面を見ていた。アリアが戸口に立っていた。
「こと。これ、あたしが打ってもいい?」
千尋さんは言った。
「アリアのことは、書かない。ことりの約束は、聞いた」
私はアリアを見た。アリアはうなずいた。
千尋さんは、キーボードの上に手を置いた。看護記録を打つときの手だと思った。速かった。
『兄貴へ。』
句点を打つ前に、字は灰色になっていた。端から崩れて、一秒で消えた。
千尋さんは、もう一度打った。
『真壁千尋』
灰色。消えた。
千尋さんは、手を膝に下ろした。画面のカーソルが、ゆっくり点滅していた。一分に、十回くらい。
「葛西さんも、ゆずちゃんも、こうだったって言ったね」
「うん」
「あたし、兄貴の妹なんだけど」
アリアが、戸口で小さく息を吸った。作者の血を引くあなたなら、と一か月前に言ったのは、アリアだった。
「血だけでは、ないのですね」
アリアは言った。誰に言ったのでもなかった。
妹は書けない。娘は書ける。血が関係ないのか、娘だからなのか、それとも別の何かなのか。分かったのは、血がつながっていれば誰でも書けるわけではない、ということだけだった。
千尋さんは、しばらく画面を見ていた。それから、立ち上がった。
「信じたわけじゃないよ」
千尋さんは言った。
「でも、兄貴の仕事に、ことが何か背負わされてる。それは分かった」
千尋さんは、書斎を出ていった。階段を下りる音がして、また上がってくる音がした。
戻ってきた千尋さんの手に、黒い手帳があった。
「兄貴が倒れたとき、ポケットに入ってた。救急の人から病院に行って、あたしが受け取った」
黒い革の、手のひらくらいの手帳だった。角がすり切れて、白くなっていた。
「落ち着いてから渡そうと思ってた。最後のページ、あたし、読んだ。意味が分からなかった。今も、半分しか分からない」
千尋さんは、手帳の角を親指でなでた。
「兄貴、昔からそうだった。離婚のときも、あたしには何も言わなかった。言わないで、夜中に書いてた。言いたいことは、たぶん全部、こういうとこに書いてた」
千尋さんは、手帳を私の手に置いた。
「読むなら、一人で読みな」
アリアが、戸口から一歩下がった。
「私は、外にいます」
「いて」
私は言った。自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。アリアは、戸口に立ったまま止まった。千尋さんは、私とアリアを見て、一人で階段を下りていった。少しして、階段の下から千尋さんの声がした。「こと、ゆずちゃん来るんだよね。来なかったら電話しな。病棟でも出るから」。それから、玄関の戸が閉まる音がした。今夜は夜勤だと、朝に言っていた。四時半だった。
手帳は、ほとんどが小説のメモだった。鐘の名前。塔の高さ。グラムの年齢。読めない走り書き。
ところどころに、別の字があった。同じ父の字なのに、急いでいなかった。
『卵焼き 砂糖大さじ二 塩ひとつまみ ことりは甘いのが好き』
『春季大会 四月二十日 3000m ことり』
次の年のページにも、同じことが書いてあった。日付だけが違った。その次の年にも。どれも、上から線は引かれていなかった。行かなかった大会の日付が、消されずに並んでいた。
大会の夜には、いつも卵焼きが出た。甘い卵焼きだった。あの人は大会に来なかったのに、大会の日だけは知っていた。私は、たまたまだと思っていた。訊いたことはなかった。
最後のページは、八月の終わりだった。
ペンの字だった。一行ずつ、間をあけて書いてあった。
『アリアを終わらせる。』
『終わらせたら、ことりの父親に戻る。』
『春の大会には行く。』
『卵焼きの作り方を教える。』
私は、そのページから目を上げられなかった。
アリアが、戸口から言った。
「何と、書いてあるのですか」
声に出して読んだ。一行ずつ。四行目まで読んで、声が出なくなった。
喉の奥が熱かった。目の前の字が、にじんだ。
手帳に、水が落ちた。インクが少し広がった。
私は、泣いていた。
葬式でも泣かなかった。九月十一日の朝、書斎の机で冷たくなっていたあの人を見つけたときも。通夜でも、骨を拾ったときも。
止まらなかった。手帳を閉じようとして、閉じられなかった。
アリアは戸口から動かなかった。近づいてこなかった。私が泣いているあいだ、ずっとそこに立っていた。
どれくらいたったか、分からなかった。腕時計を見なかった。
泣きやんだとき、最初に出てきたのは、怒りだった。
「なんで」
声が、かすれていた。
「なんで、アリアを殺さないと、私のとこに来れないの」
アリアのほうは見なかった。手帳を見ていた。
「十一年だよ。大会の日付、毎年書いてる。卵焼きの砂糖の量まで書いてる。知ってたんじゃん。全部。なのに来なかった。アリアを終わらせないと来れないって、なにそれ。順番、逆でしょ」
誰に言っているのか、分からなかった。あの人は、もういない。書斎には、私とアリアしかいなかった。
「終わらせても、来ないじゃん。死んだじゃん。アリアも終わってないし、あんたも戻ってこないじゃん」
私は、手帳を机に叩きつけた。
それから、また拾った。最後のページが、折れていないか確かめた。折れていなかった。
アリアが、そこで初めて口を開いた。
「お父さんは」
この家で、私の前で、アリアがその呼び方をしたのは、九月二十日以来だった。
「ことりさんのところへ、帰りたかったのですね」
私は答えなかった。
「私を、終わらせて」
「……帰りたい、という気持ちは、分かります」
アリアは言った。
「私も、カイのところへ帰りたいです。鐘を鳴らしに」
少し、間があった。
「鳴らしたあとのことは、まだ、分かりません」
私は、アリアの顔を見た。アリアは、包帯の巻かれた左腕を、右手で押さえていた。
私は手帳を開いたまま、何も言えなかった。
腕時計を見た。四時五十一分。日没まで、五分。
「下に」
アリアが先に言った。私たちは居間に下りた。昼に呼んでおいたゆずが、もうランタンを並べていた。光の輪の真ん中に、私は座った。
五時二分、影が出た。小さいのが六匹だった。アリアは右手だけで剣を振った。六回。左腕は、体の横につけたままだった。
大きいのは、来なかった。
ゆうべ倒したからなのか。それとも、どこかで次のが育っているのか。数は減っている。点滅は遅くなっている。この二つが、合っていなかった。
「次は、もっと大きいかもしれません」
アリアは刃を見ながら言った。
「来ない夜があっても、次の夜も来ないとは限りません」
私はメモ帳に、六、と書いた。その横に、大、なし、と書いた。
十時に測った。十回で、六十二秒五〇。一分に、九・六回。
手帳は、机の上の、小石の横に置いた。