第20話 夜のトラック
2026.10.20
日曜の夜も、九匹だった。大きい一匹は、土曜より大きくなっていた。
月曜の夜は、八匹だった。一匹が、子牛くらいあった。
数は減っていた。点滅は遅くなっていた。足りない分は、全部その一匹に集まっているように見えた。
月曜の夜、その一匹が居間の敷居で鳴いた。家じゅうの電灯が一度に消えた。この家は端から端まで十メートルとちょっとで、一回鳴けば全部消える。電池の光だけでは、大きいのは遅くなりきらなかった。遅い一歩で光の輪をまたいで、私の右手まで、あと一メートルだった。アリアが三回斬って、やっと止めた。小さいのに七回。ルクスの光は、それで尽きた。
明日は、もっと大きい。
日曜と月曜の二晩、私はストップウォッチで鳴き声を測っていた。区別がつくのは、大きいのだけだった。続けて鳴いた間隔は、四回測って、一分二秒、一分五秒、一分十一秒、一分四秒。一分より早く鳴いたのは、一度も見ていない。
一度も見ていない、というだけだった。四回しか、測っていない。
火曜の朝、走りながら、私は言った。
「今夜は、家にいない」
アリアは、私の横で前を見ていた。
「学校の、トラック。照明の柱が四本ある」
柱は、高さ八メートルくらい。トラックの外の四隅に一本ずつ立っている。長い辺の柱と柱は百八十メートル、短い辺は百メートル。明るいのは根元から二十メートルくらいで、柱と柱のあいだは暗い。鳴き声が届くのは十メートル。根元で鳴けば上の灯りまで届くが、隣の柱には届かない。一回鳴いても、消えるのは一本だけだ。
「消えた柱から、点いてる柱へ、私が走る。あいつらは私の右手を追ってくる。点いてる柱の下で遅くなる。そこを、斬って」
今週は中間試験の前で、部活は全部止まっている。それでも照明は、タイマーで夕方五時から七時まで点く。去年の試験前、一人で走りに行って知った。グラウンドは校舎の裏で、職員室の窓からは見えない。
「千尋さんの、約束は」
アリアが言った。暗くなってから、二人で出歩かない。
「破る」
アリアは少し黙って、うなずいた。
ゆずには、学校で言った。ゆずは何も訊かずに「懐中電灯、全部持ってく」と言った。
四時十分、家を出た。私は自転車で、アリアは走った。剣は傘の袋に入れて背負っていた。ゆずは懐中電灯五本とランタン三つを、二つの紙袋に分けて提げてきた。
グラウンドには、誰もいなかった。部室棟の窓は暗く、駐車場に先生の車が二台だけあった。柱は場所で呼んだ。部室棟の柱から正門の柱までが長い辺、正門から体育館の柱までが短い辺だ。
ゆずには、体育館の柱の下に立ってもらった。ランタンを地面に三つ、懐中電灯を二本ずつ持って、柱の足もとを照らす。電池の光は、鳴き声で消えない。
「ここだけは、柱が消えても真っ暗にならない。でも、最初はここに連れてこない」
群れで来たら、ゆずが巻きこまれる。小さいのを先に減らす。大きいのは、鳴いた直後の一分のあいだに斬る。一回で倒れなければ、アリアはすぐ離れ、私は体育館の柱へ走る。
アリアは剣を袋から出して、柄のタオルをほどいていた。
五時、照明が点いた。四本の柱が、白く光った。日没は四時五十八分。
私は腕時計のストップウォッチを、ゼロに戻した。脈は百四だった。まだ一歩も走っていなかった。
五時九分、正門のほうの暗がりが、ゆれた。
小さいのが七匹、地面を這ってきた。その後ろに、大きいのが一匹。子牛より大きかった。
私は部室棟の柱の下に立っていた。右手を、わざと体の前に出した。
小さいのが光の中に入って、遅くなった。アリアが斬った。一つ。二つ。三つ。
大きいのが、柱の根元まで来て、鳴いた。
部室棟の柱が消えた。私はストップウォッチを押して、走った。
正門の柱まで、百八十メートル。トラックの直線を、全力で。アリアの足音が、私のすぐ左にあった。
正門の柱の下で振り返った。小さいのが四匹、光に入って遅くなった。一匹が首を上げて、口を開けた。アリアはその一匹から斬った。残りの三匹も、口が開く前に斬った。七つ。小さいのは、もういなかった。
大きいのは、光の縁で止まっていた。ストップウォッチは、四十八秒だった。
これまで、一分より早くは鳴いていない。今なら、たぶん、ここは消えない。
「今」
私が言った。アリアが踏みこんで、斬った。大きいのの肩に、刃が入った。八つ。でも、止まらなかった。大きいのは身をよじって、光の中を、遅い一歩で私のほうへ来た。遅くても、一歩が長かった。
一回で離れる約束だった。私は走り出そうとした。でも大きいのの一歩のほうが、私の一歩目より早かった。
アリアは離れなかった。私と大きいのの間に入った。
黒い前脚が、アリアの左腕をかすめた。ジャージの袖が裂けた。アリアは声を出さなかった。
一分五秒。大きいのが鳴いた。正門の柱が消えた。
短い辺を、体育館の柱へ。百メートル。ゆずのいる柱だ。
ストップウォッチを押し直して、走った。
ゆずが、懐中電灯を四本、私の後ろへ向けた。柱の白い光と、電池の光が重なった。
大きいのが、光の中に入ってきた。今度は、はっきり遅くなった。前脚を出すのに、一秒かかった。
ストップウォッチは、十九秒だった。これまでどおりなら、あと四十秒、こいつは鳴かない。これまでどおりなら。
「アリア」
アリアは右手だけで剣を握っていた。左腕から、袖を伝って、黒っぽいものが芝に落ちていた。
アリアは、大きいのの首の付け根に、上から刃を落とした。
九つ。
大きいのは、端から崩れて、なくなった。
ゆずが懐中電灯を下ろした。手が震えて、光が芝の上で揺れていた。
「残りは」
「一つです」
アリアは剣を下ろしてから、左腕を見た。袖の裂け目の縁が、白く霜のようになっていた。
家に帰ったのは、六時前だった。
居間の電気が点いていた。千尋さんが、パーカーのまま座卓に座っていた。夜勤明けで、昼に寝て、起きていた。
千尋さんは、アリアの袖を見て立ち上がった。袖を切って、傷を見た。左の二の腕に、十センチくらいの裂け目があった。縁が白く、硬かった。
「指、動かして。……感じる? ここは」
アリアは指を全部動かした。千尋さんは指先を一本ずつ押した。
「神経も腱も、たぶん大丈夫。でも深い。刃物じゃない。獣でもない。なにこれ。凍傷みたいな縁」
千尋さんは、スマホを出した。
「病院行くよ。救急」
「保険証、ない」
私が言った。
「名前も、住所も、ない。連れてったら、警察が来る」
「金ならあたしが出す。警察が来たって、それは」
「先に、聞いて」
私は言った。千尋さんはガーゼをアリアの腕に押し当てたまま、私を見た。
私は話した。九月十四日の朝から。書斎の剣。画面の一行。くしゃみと右手。影。点滅。四十九日。
「影は、毎晩、私の右手を狙ってくる。九月十七日から、ずっと。今夜も。アリアがいなかったら、私の手が、こうなってた」
ガーゼを押さえる千尋さんの手が、一度止まった。
「一か月?」
「うん」
「毎晩?」
「うん」
「なんで、言わなかったの」
答えられなかった。言っても信じてもらえないと思った。でも、それだけじゃなかった。誰かに言ったら、あの人の書斎のことを、あの人のことを、誰かと話さなければならなくなる。
千尋さんは、長いこと黙っていた。それから、ガーゼを少しずらして、傷をもう一度見た。
「血は、もうほとんど止まってる。縁が凍ってるみたいに固まってる。汚れも入ってない」
「救急に連れてっても、やることは同じ。洗って、縫う。違うのは、そのあと、名前のない子に警察と児相が来るかどうか。来たら、この子はたぶん月末までここにいられない」
千尋さんは、私の顔を見た。
「あんたの話は、信じない。でも、こと、あんたがこんな顔で嘘つくの、見たことない。それに、この子がいなくなったら、あんたが困るのは分かる」
千尋さんは、押し入れから黒いポーチを出してきた。救急外来にいたころから捨てられずにいる、期限切れの縫合セットだった。
「縫うのは、本当は医者の仕事。ばれたら、あたしは仕事なくす。それでも縫う。条件がある。傷が赤くなったり熱が出たら、そのときは何を言っても病院に連れてく」
「……うん」
針が六回入った。麻酔はなかった。アリアは天井を見て、数を数えていた。六まで、声に出さなかった。
千尋さんは、最後の糸を切った。
「信じない」
千尋さんは言った。
「でも、縫った。こと、次からは、出る前に言いな。約束、二つ破ったよ」
それから、アリアの腕に包帯を巻いた。
「抜糸は一週間後。それまで両手で剣なんか振ったら、開くよ」
アリアが、縫った腕を見た。
「七つ目の鐘は、両手で打ちます」
千尋さんは、何の話か分からない顔をした。私には分かった。十巻の、付箋を立てたページに書いてあった。七つ目の鐘は、ルクスの刃で、両手で、全身の力で打つ。
一週間後は、二十七日だった。
十時に、測った。十回で、五十四秒五五。一分に、十一回。
点滅が止まるのは、二十八日。抜糸の、次の日だった。