第19話 読者の結末
2026.10.20
土曜日の朝も、五時二十分に家を出た。
三日目だった。アリアは靴紐を一回で結べるようになっていた。剣は今日も、父のゴルフ傘の袋に入れて背負っていた。一キロ目は私の横で、四分五十二秒。
二周目の途中で、私は言った。
「話がある」
アリアは前を見たまま、うなずいた。
「小石のこと。あれと同じなら、あんたも鐘のあと、ここに来るかもしれない」
足音が、少しだけ乱れた。
「確かでは、ないのですね」
「ない。石と人が同じかも、鐘と文が同じかも、分からない。試せない」
小石が来たのは、アリアも見ている。拾ったのはアリアだ。でも、それを鐘のあとのアリアにつなげて考えていることも、そういう終わりなら書けるかもしれないと思っていることも、私は言っていなかった。
木曜は、期待させるのが怖くて言えなかった。怖いのは私の都合で、アリアの都合じゃなかった。
アリアは三十歩ほど黙って走った。
「もし、来たら」
息の合間に、アリアは言った。
「カイのところへは、もう、帰れないのですね」
小石は、塔に戻す文が書けない。
「……たぶん」
アリアは、また黙った。橋が一つ、後ろに過ぎた。
「鐘は、鳴らします」
「知ってる」
「では、それは、鳴らしたあとのことです」
アリアはそれだけ言って、少し前に出た。私は追わなかった。
昼に、ゆずが来た。
紙袋に、単一電池が二十本入っていた。ゆずは居間の床に電池を並べて、懐中電灯を一本ずつ開けて入れ替えた。それが終わってから、私は机の小石を持ってきて、ゆずの手のひらに置いた。
「冷た」
ゆずは言った。
私は火曜の夜から水曜の朝までのことを話した。打った文。灰色になった文。夜明け。かつん、という音。それから、柳さんの原稿と、あの人の最終章のメモのこと。死ぬ、と書いてあったこと。
ゆずはメモの話で、一度だけ目を閉じた。
「先生、決めてたんだ」
「四行だけ。理由は書いてない」
「そっか。……そっかあ」
ゆずは眼鏡を外して、Tシャツの裾でレンズを拭いた。拭き終わっても、しばらくかけなかった。
「それで、ことりんは」
「アリアが鐘を鳴らして、消えて、それでどこかで生きてる。そういう終わりなら、書けるかもしれない」
まだ書くとは決めていなかった。でも、口に出すと、そういう形になった。
ゆずは小石を見ていた。長いこと見ていた。それから、座卓の向こうのアリアを見た。
「アリアさん。本の読者として思ってること、一個ある。アリアさんの前で言っていい? 言わないほうがいいなら、言わない」
アリアは少し驚いた顔をした。
「この前、壁の向こうで聞かせちゃったから」
ゆずは言った。
「聞こえないとこで言うほうが、ずるいと思った。だから、先に訊く」
アリアは、ゆずの顔をまっすぐ見た。
「聞きたいです」
ゆずは、うなずいた。膝の上で、手を握った。
「鐘のあとアリアさんが生きてたら、私はたぶん、本の最後としては、ずるいって思う」
アリアは、黙って聞いていた。
「一巻から、アリアさんは鳴らすんだって思って読んできたの。小学生のときから。グラムが死んだときも、九巻の帳面のとこも。悲しいのを受け取る準備を、ずっとしてきた。読者の覚悟なんて、アリアさんの覚悟とは全然違うけど。それでも、鳴らしたあとに実は生きてました、ってなったら、たぶん私は、ずるいって思う」
ゆずは息を吸った。
「目の前にいるアリアさんには、生きててほしい。それも本当。両方、思う。ごめん」
アリアは、しばらく何も言わなかった。
「謝らなくて、いいです」
アリアは言った。
「私も、鳴らして終わると思っていました。カイたちのために。ゆずさんとは、理由が違いますが」
ゆずは、思っていました、の過去形を訊き返さなかった。私も、訊かなかった。
二時に、国分寺の図書館へ行った。ゆずは家に残って、ランタンの配置を書いた紙を作ると言った。
日野さんは土曜の当番だった。前と同じ二階の談話室で、紺のエプロンのまま待っていた。アリアを見て、また少し笑った。
「今日も、似合いますね」
アリアは鐘守の礼をしかけて、途中でやめて、頭を下げた。
私は、話せることだけを話した。会社が、別の人に最終巻の最後を書かせようとしていること。私が同意しないと、その原稿は出ないこと。その原稿では、アリアは死ぬこと。同意するかどうか、月末までに決めなければならないこと。
訊きたかったのは、一つだった。十一年読んできた人は、アリアの死を待っているのか。
「もしも、の話です」
私は言った。
「アリアが鐘を鳴らして、この世界から消えて、それで、どこかで生きてたら。日野さんは、どう思いますか」
日野さんはすぐには答えなかった。窓の外を見て、それから、膝の上で両手を重ねた。
「死んでほしくないです」
ゆっくり言った。
「十四のとき、アリアが剣を取るところで泣きました。あの人に死んでほしいと思ったことは、一度もありません」
私はうなずきかけた。
「でも、先生が決めたことなら、受け取りたいです。七月に、そう書きました」
日野さんは私を見た。
「先生は、何か残していましたか」
答えるまでに、少しかかった。
「……決めてたみたいです。死ぬ、って」
日野さんは目を伏せた。長く伏せていた。
「そうですか」
それから、顔を上げた。
「それなら、私は、それを読みたいです。悲しくても。先生が最後に書きたかったものを」
アリアは私の横で、日野さんを見ていた。前に来たときと同じように、膝の上で手を組んでいた。組んだ指の先が、白くなっていた。
日野さんは、私の知らないあの人の話をした。手紙の返事は、いつも三週間かかったこと。そのかわり、一度も途切れなかったこと。
「だから、最後も、ちゃんと受け取りたいんです」
それから、日野さんは私を見た。
「ことりさんは、どうしたいんですか」
答えられなかった。同意するかどうかを訊きに来たのに、私が何を書きたいのかを訊かれた。書く、とはまだ一度も口にしていないのに。
日野さんは、答えを待たなかった。
日野さんが、アリアに訊いた。
「あなたは、どう思いますか。アリアが好きなんでしょう」
アリアは少し考えた。
「鐘は、鳴らすべきだと思います」
日野さんは、ええ、とうなずいた。アリアはそれ以上、言わなかった。鳴らしたあとのことは、言わなかった。
帰りの電車は三時五十分だった。日没まで、一時間と少し。
アリアはドアの横に立っていた。ゴルフバッグのフードに、手を置いていた。
「ゆずさんも、さくらさんも、私のことが好きなのですね」
「そうだね」
「好きな人ほど、私が鳴らして終わるのを、待っていてくれたのですね」
私は答えなかった。
ゆずは、目の前にいるのが本人だと知っていて、それでも本の最後としては受け取ると言った。日野さんは、隣に座っているのが本人だとは知らない。日野さんが死んでほしくないと言ったのは、十四歳のときに読んだ剣士のことだ。それでも、先生の決めたことなら受け取ると言った。二人とも、十一年読んできて、それぞれのやり方で決めていた。一冊も読まなかった私だけが、何も決めていない。
窓に、自分の顔が映っていた。
アリアは、生きたい、と言った。木曜の朝、草の上で。それは私が聞いた。今朝は、カイのところへはもう帰れないのか、と訊いた。
生きたい、は、どこで、とは言っていない。私は最初から、ここに来る形しか考えていなかった。この家の、あの書斎に。四十九日がすんだら、あの家に、私と千尋さんしかいなくなる。父の椅子と、父のPCと、父の靴だけが残る。それが嫌で、アリアがどこで生きるかまで、私が決めていないか。
脈を測った。九十。座っているのに。
家に着くと、ゆずが居間の図を描いた紙を座卓に置いて待っていた。ランタンの位置に丸、懐中電灯の向きに矢印。真ん中に「ことりん」と書いてあった。ゆずは四時半に帰った。明日は家族で出かけるのだと言った。千尋さんは今夜も夜勤だった。
木曜も、金曜も、影は十匹だった。十一匹目は来なかった。
その夜は、九匹だった。日没の十七時六分すぎ、書斎から廊下へ出てきた。
居間の真ん中に、ランタン三つと懐中電灯五本の光の輪を作って、私はその中に座った。アリアは輪の外で、八匹を八回で斬った。
最後の一匹は、大きな犬くらいあった。
光の中で、遅くはなった。でも、体が大きかった。遅くなった一歩で、小さいのの三歩ぶん進んだ。輪をまたいで、私の右手のほうへ来た。私は手を胸に引いて、座ったまま後ろへずれた。ランタンが一つ、倒れた。
アリアが横から斬った。刃は入った。でも、止まらなかった。二回目で、やっと崩れた。
九回目と、十回目だった。刃が、ただの鉄の色に戻った。
「数は、減りました」
アリアは刃を見ながら言った。
「かわりに、大きくなっています。遅くしても、届きます」
倒れたランタンを起こした。手が震えて、一回で立たなかった。
十時に測った。十回で、四十秒二〇。一分に、十五回弱。
数は減った。点滅の間隔は、また長くなっていた。