第18話 書かれていない私
2026.10.20
木曜日の朝、五時に起きた。
着替えて部屋を出ると、客間の戸が開いていた。アリアが廊下に立っていた。父のジャージを着て、三つ編みを背中に回していた。
「走るのですか」
「空が白んだら」
九月二十日の夕方、走りに出て、影に外まで追われた。それからは日が沈む前に家に入っている。部活も休んだままだ。走るなら、朝しかない。
千尋さんの条件の三つ目は、暗くなってから二人で出歩かない、だった。暗いうちも、たぶん同じだ。
「私も、行きます」
「靴、ないでしょ」
アリアは玄関の下駄箱を見た。父のランニングシューズが一足、奥にあった。一度も履かれていない、白いままの靴だった。何年か前に買って、そのままになっていた。
アリアは靴下を二枚重ねて、それを履いた。紐を結ぶのに、三回やり直した。
それから客間に戻って、剣を持ってきた。
「置いてけば。走れないよ」
「置いていけません。誓いました」
三巻の、生涯この剣を手放さない、の一行だった。抜き身で外に出たら通報される、と前に言ったのは私だ。ゴルフバッグは重すぎて走れない。
ゴルフバッグのポケットに、父のゴルフ傘の長い袋が入っていた。傘を抜いて、剣を鞘ごと入れた。袋の口から柄が出たので、タオルを巻いてゴムで留めた。物干しのロープで袋を背中に斜めに負わせて、上から父のウインドブレーカーを着せた。釣り竿か何かに見える。たぶん。
五時二十分、カーテンの端が白くなった。私たちは家を出た。
野川の遊歩道を、橋から次の橋まで行って戻る。一周二キロ。
一周目、アリアは速すぎた。最初の百メートルで私を抜いて、二百で止まって振り返り、私を待った。全力で駆けて、止まって、また駆ける。足が地面を叩いて、背中の袋が一歩ごとに鳴った。戦いに走るときの走り方だった。
「抑えて。私の横。六キロ、同じ速さ」
アリアは下がって、私の右に並んだ。私は腕時計で、一キロごとのラップを取った。四分五十秒。
二周目に入ったところで、アリアが言った。
「ことりさん。お願いがあります」
息が切れていたので、短く区切って話した。
「上手に、笑える。と、書いてください」
私は足を止めなかった。
「柳さんの文の、私は、笑っていました。カイを、見上げて」
昨日の夕方、私が読み上げた原稿だった。
「本の中の私は、二回しか、笑っていないそうです。ゆずさんが、教えてくれました。昨日の夜、鏡の前で、やってみました。うまく、いきませんでした」
アリアの声は、平らだった。
「最後に、カイの前に立つのなら。上手なほうが、いいです」
鐘のあとのことは、言わなかった。生きるにしても、死ぬにしても、最後にカイの前に立つのは、同じだった。
「無理」
「書いても、灰色には、ならないと思います。笑えない、とは、書かれていないので」
アリアの言うとおりだった。書かれていないことは、たぶん通る。小石と同じだ。
ゆうべ、メモ帳に書いて線を引いた一行を思い出した。本が塞いでいないなら、決めるのは打つ人だ。死ぬ、も、笑う、も同じだった。
「通るから、書かない」
私は言った。
「書いたら、それは私が笑わせたことになる」
アリアは何も言わなかった。
「あんたの顔なのに、私が動かすことになる」
「まばたきは、私が良いと言いました。ことりさんは、打ちました」
アリアは前を見たまま言った。息が切れて、言葉が細切れだった。
「今日も、私が、頼んでいます」
そのとおりだった。右手のときとは違う。アリアは背中を向けていないし、頼んでいるのはアリアだった。
「まばたきは、三回で終わった」
私は言った。
息を吸ってから、続けた。
「笑い方は、終わらない。この先ずっと、あんたが笑うたびに、私が書いたのか、分からなくなる」
言いながら、それが全部の理由なのか、自分でも分からなかった。一か月前、背中のうしろで右手を上げさせた。あれを、もう一回やるのが怖いだけかもしれなかった。
「……私は、それでも、かまいません」
「私が、かまう」
アリアは、それ以上は頼まなかった。納得した顔ではなかった。足音と、息の音だけになった。
三周目に入る前に、私は言った。
「最後の百メートル、好きにしていい」
アリアは私の顔を見た。
「好きに、とは」
「抜きたかったら、抜けば。全力で」
三周目の一キロは、四分四十秒だった。アリアは私の横で、肩で息をしていた。顔が赤かった。汗が、こめかみから顎へ流れていた。
最後の橋が見えた。あと百メートル。
アリアが出た。
さっきと違う走り方だった。腕を振りすぎていなかった。私の横を走った二周で、覚えたのだと思う。背の高い体が、前に倒れるように進んでいった。
私も出た。追いつけなかった。追いつけないのは、分かっていた。脚の長さが違う。
アリアは橋のたもとで止まりきれずに、三歩よろけて、土手の草の上に転がった。
私が追いついたとき、アリアは剣を背負ったまま横向きに転がっていて、それから仰向けになった。空を見ていた。胸が上下していた。
そして、笑った。
声が出ていた。息が切れていて、笑い声も切れていた。苦しそうなのに、止まらなかった。アリアは自分でも驚いたみたいに、手で口を押さえて、それでもまだ笑っていた。
私は腕時計を見た。五時五十一分。東の空の、雲の下が明るかった。日の出の時刻を、少し過ぎていた。
上手な笑い方では、なかった。
アリアが落ち着くまで、私は横に座っていた。
「勝ちました」
「知ってる」
「書いてくださらなかったことは、まだ、怒っています」
「知ってる」
「足が、自分のものではないみたいです。でも、自分のものです」
アリアは、草の上で手を開いて、閉じた。あずきバー、ひらがな、電車、布団、と小さく言いながら、指を折っていた。四本目で止まって、少しして、五本目を折った。
それから、空を見たまま、言った。
「私は、もっと、走りたいです。明日も。その次も」
少し、間があった。
「……生きたい、です」
言ってから、アリアは跳ね起きた。口を押さえた。さっき笑ったときと同じ手だった。でも、顔が違った。
「今のは」
アリアの目が、私の手を見た。私の手には、何もなかった。キーボードも、画面もなかった。それでもアリアは、私の手を見ていた。
「今のは、私が、言ったのですか」
声が震えていた。
「鐘を鳴らすと決めた夜も、私は、私が決めたと思っていました。今のが、私の中から出たのか、どこかに書かれていたのか、私には、分かりません」
アリアの手が、右の肩の上の、タオルを巻いた柄に行った。握らずに、そこで止まった。
私に分かることは、少ししかなかった。
「今朝のは、誰も打ってない」
アリアが、私を見た。
「打てるのは、今のところ私だけ。私はここで、あんたの横を走ってた。指は、腕時計のボタンしか押してない」
私は、腕時計を見せた。ラップが六つ、残っていた。
「私、見てたから。言えるのは、今朝のことだけ」
「前に、書かれていたのかもしれません。私が知らないうちに」
「前に、言ったことある? 細かく覚えてる日に」
アリアは黙った。目が、どこも見ていなかった。九巻の石の前の夜を、北の谷を、塔の上を、順に探しているのだと思った。細かく覚えている日は、書かれた日だ。アリアが自分で見つけたことだった。
「……ありません。生きたい、と言った日は、ありません」
「じゃあ、本の中にはない。たぶん。私、全部は読んでないけど」
アリアは長いこと、私の腕時計を見ていた。
「分かりません」
アリアは言った。
「でも、今朝走ったのは、私です。抜いたのも、転んだのも、私です。その続きで、出てきました」
アリアは柄から手を下ろした。
「では、私が言ったことに、してみます」
「困ります」
アリアは言った。
「鐘は、鳴らします。鳴らさなければ、カイたちは止まったままです。それは、変わりません」
「知ってる」
「それなのに、生きたいのです」
アリアは、膝を抱えた。
「どちらも、本当です。困ります」
私は、何も言わなかった。言えることがなかった。どちらかを選べ、とは言えなかった。
小石は、消えて、ここに来た。机の上で拾ったのは、アリアだった。アリアも知っている。
でも、あんたも来られるかもしれない、とは、まだ一度も言っていなかった。石と人が同じかは、分からない。今、生きたいと言った人にそれを言って、外れたら。夜明けに書斎で待って、何も落ちてこなかったら。
言うべきなのは、分かっていた。九月の終わり、endのメモを読み上げずに済ませることを考えて、やめた。黙っているのは、あれに近い。
それでも、言えなかった。期待させるのが怖かった。怖いのは私のほうだった。
草の上で、アリアの息が落ち着いていくのを数えていた。一分に、三十二回。二十八回。二十四回。
帰り道、アリアはもう一度だけ言った。
「明日も、走ってもいいですか」
「五時二十分。空が白んでから」
アリアはうなずいた。
家に着くと、アリアは父の靴を脱いで、泥を手で払った。それから、玄関の、自分の脱いだ場所に、つま先をそろえて置いた。
父が一度も履かなかった靴だった。