第15話 母の電話
2026.10.19
十月八日、木曜日。影は五時十二分に出た。八匹だった。
懐中電灯は、書斎の入口に二本、廊下に一本置いた。残りの一本を、私は廊下の奥で左手に持って床に向けた。右手はポケットに入れていた。光の輪に入った影は遅くなる。遅くなった影を、アリアが斬る。八回斬って、アリアは「八つ。残りは二つです」と言った。
十のうち、八つ。もう少しで、足りなくなる。
「明日、十を超えたら」
「光で遅くして、逃げるしかありません。斬らずに、朝まで」
アリアは剣を鞘に納めながら言った。光の中でも、影は止まらない。遅くなるだけだ。日没から朝までは、十三時間ある。私は懐中電灯の電池の残りを、頭の中で数えた。十三時間は、足りなかった。
私は懐中電灯を消して、数を数えた。脈は百十。
六時半に、夕飯にした。冷凍のハンバーグを二つ焼いて、ご飯を炊いた。アリアは台所のテーブルで、私の向かいに座った。おかわりは、また二回に戻っていた。火曜から、アリアは私の顔をあまり見ない。見るのは、私の手と、皿だった。
玄関の鍵が回ったのは、アリアが二杯目を食べているときだった。
「こと、いる? 夜勤、交代になって——」
千尋さんの声だった。廊下を歩く足音が、台所の前で止まった。
アリアは、箸を持ったまま動かなかった。私も動かなかった。
千尋さんは、台所の入口に立っていた。くたびれたパーカーで、手にコンビニの袋を提げていた。アリアを見て、私を見て、またアリアを見た。アリアの着ている紺のトレーナーで、目が止まった。
「それ、兄貴の」
「……借りてる」
私が言った。千尋さんは、袋をテーブルの端に置いた。
「誰」
考えていた嘘が、一つだけあった。いつか見つかったときのために、三週間前から用意していた。
「陸上部の先輩。家にいられない事情があって。少しのあいだだけ」
千尋さんは、私の顔を見なかった。アリアの顔を見ていた。左の頬の傷。三つ編み。テーブルの上に置かれた、アリアの手。
「名前は」
アリアが箸を置いた。私を一度見た。私が口を開く前に、アリアは千尋さんのほうへ向き直った。
「アリアです」
私は目を閉じた。打ち合わせでは、名前を訊かれたら私が答えることになっていた。
あとで訊くと、アリアは「この家の方に、偽りの名は言えません」と言った。泊めてもらう家の主に名を偽るのは、鐘守の礼に反するのだという。
千尋さんは、少し黙った。それから、廊下のほうを見た。一階の廊下の、アニメのポスターのほうだった。
「あだ名」
私が言った。千尋さんは、私を見た。
「こと」
「何」
「嘘なのは分かる」
千尋さんの声は、怒っていなかった。
「あんた、嘘つくとき、私の顔見ないでしょ。小さいときから。それに、陸上部の先輩がこんな手してるの、見たことない」
アリアが、テーブルの上の手を、膝に下ろした。剣だこのある手だった。
千尋さんは椅子を引いて座った。袋から缶ビールを出して、開けなかった。
「親御さんには、連絡してるの」
アリアに訊いた。アリアは少し黙って、答えた。
「連絡のつく親は、いません」
嘘ではなかった。父親は、三つのときに死んだ。母親は、未定だった。いない、とは書かれていない。いる、とも書かれていない。
千尋さんは、缶を指で回した。一回、二回。
「いつまで」
「月末まで」
私が答えた。二十八日。四十九日。数字は言わなかった。
千尋さんは、テーブルの上を見た。皿が二枚。茶碗が二つ。アリアの茶碗は、二杯目が半分残っていた。
「ことが誰かと飯食ってるの、久しぶりに見た」
千尋さんは言った。
「兄貴が生きてたときも、見なかったよ。あんた、いつも一人で食べてたでしょ。あの人、夕飯だけ作って、書斎に上がっちゃうから」
私は答えなかった。千尋さんは、缶を開けなかった。アリアのほうを向いた。
「家にいられない事情って、何」
アリアは少し黙った。それから、千尋さんの目を見て答えた。
「帰る場所が、今は止まっています。月末に、帰ります。帰り方を、ことりさんと探しています」
嘘ではなかった。千尋さんには、意味が分からないはずだった。千尋さんは、しばらくアリアの顔を見ていた。殴られた跡や、怯えた様子を探すような見方だった。看護師の見方だと思った。
「誰かに追われてるとか、そういうのは」
アリアは答えなかった。私が先に言った。
「警察が要るようなことじゃない」
半分は本当で、半分は分からなかった。
千尋さんは、缶を開けた。
「今夜は泊めな。月末までかどうかは、明日、ことと二人で話してから決める。危ないことはしない。困ったら、私に言う。それと」
アリアを見た。
「ちゃんと食べな。半分残ってるよ」
アリアは茶碗を持った。残りを食べた。千尋さんは、それを最後まで見ていた。
食べ終わると、アリアは椅子から立った。千尋さんのほうを向いて、右の拳を左の胸に当て、頭を下げた。仏間の遺影の前でしていたのと、同じ礼だった。
「ありがとうございます。ここに置いていただきます」
千尋さんは、缶を持ったまま、少し口を開けた。
「何それ。部活の挨拶?」
アリアは答えなかった。答えられなかったのだと思う。私も黙っていた。
千尋さんは、ふっと息を吐いた。
「寝るとこは」
「私の部屋」
「布団は」
私が答える前に、アリアが言った。
「床に座って、寝ています」
千尋さんは、私を見た。私は目をそらした。三週間、布団を出すことを、一度も考えなかった。
「客間の押し入れにもう一組あるから、持っていきな」
それから、ビールを一口飲んで、私のほうを見ずに言った。
「兄貴の荷物、病院から預かってるのがあるから。落ち着いたら渡すね」
私は「うん」とだけ言った。何があるのかは、訊かなかった。
九時すぎに、スマホが鳴った。画面に「お母さん」と出ていた。
私は縁側に出て、戸を閉めた。
「ことり? ごめんね、遅くに。法要のことで」
母の声は、葬式のときより落ち着いていた。福岡で、再婚した人と、小学生の弟と暮らしている。二十五日の法要には来られない、弟の運動会と重なった、と母は言った。
「いいよ。千尋さんがやってくれるから」
こっちに来る話は、母は今夜はしなかった。葬式のときに、私が断っていた。
「ちゃんと食べてる?」
「今日は、二人で食べた」
言ってから、しまったと思った。母は「二人?」と訊き返した。
「千尋さんと」
嘘だった。千尋さんが帰ってきたのは、食べている途中だった。母は「そう、よかった」と言った。それ以上は訊かなかった。
切ろうとしたとき、私の口から、別の言葉が出た。
「お母さん。なんで、あの人と別れたの」
十一年、一度も訊かなかった。訊く理由がなかった。今は、あった。水無月さんの家で読んだ一行が、まだ頭のどこかに貼りついていた。
母は、長く黙った。電話の向こうで、テレビの音がした。
「自分のことを、話せない人だったのよ。本の話や、どうでもいい話なら、いくらでもするのに」
母は言った。
「私とも、ことりとも。黙って、夜に書いてた。私は、それに疲れたの。あの人が悪い人だったとは、今も思ってない」
「……」
「出ていく前の晩にね、あの人、ことりに読んで聞かせる話を書いてる、って言ったの。私には見せなかった。一巻が本になってから、福岡で読んだ」
私は、縁側の柱を見ていた。覚えている、とは言わなかった。
「アリアって子が、カイって子に、おかえりなさいって言う場面があるの。市場から帰ってきたカイに。読んだとき、私、分かったの」
母の声が、少し低くなった。
「あの人、ことりが幼稚園から帰ってきても、おかえりが言えない人だった。言えなくて、黙ってお菓子を出すの。あの人、ことりに話しかける練習を、アリアでしてたんだと思う」
台所のテーブルの、ボーロの袋を思い出した。幼稚園から帰ると、いつもそこにあった。誰が置いたのか、考えたことがなかった。
おかえり、と言われた覚えは、なかった。
電話を切ってから、私は書斎に上がった。
本棚から一巻を抜いた。家の献本の一巻だった。市場の場面は、四十ページのあたりだった。先週の金曜に、自分の声で読んだはずのページだった。
『おかえりなさい、とアリアは言った。カイは少し驚いて、それから、ただいま、と言った。』
読んだはずなのに、覚えていなかった。
あの人は、家で書いていた。出かけることは、めったになかった。帰ってくるのは、たいてい私のほうだった。そして私も、ただいま、と言わなくなっていた。
私は一巻を持って、自分の部屋に戻った。戸の内側に、客間から運んだ布団が敷いてあった。アリアはその上に、剣を膝に置いて座っていた。布団に入ってはいなかった。目を閉じていた。
「アリア」
アリアは目を開けた。火曜から初めて、私の顔を見た。
「火曜の、答え」
私は言った。
「代わりだったのかどうか、まだ分かんない。でも、あの人は、あんたで、何か練習してたのかもしれない。私に言えなかったことの」
アリアは、しばらく黙っていた。
「では、私が言われたことの中に、ことりさんに言うはずだった言葉が、あるのですか」
「……分かんない」
「そうですか」
アリアは、布団の上で、剣を膝から下ろした。脇に置いた。それから、目を閉じた。
私はベッドに座って、一巻を膝の上に置いた。