第16話 ゆずは見た
2026.10.20
金曜の朝、学校に行く前に、千尋さんと台所で二人で話した。
月末まで。寝るのは客間。暗くなってから二人で出歩かない。困ったら、私より先に千尋さんに言う。条件は四つだった。千尋さんはアリアのことを、それ以上訊かなかった。「あの子、ここ以外に行くとこがない顔してる」とだけ言った。
その夜、影は九匹出た。アリアは九回斬って、「九つ。残りは一つです」と言った。
メモ帳に数を並べた。十七日に一匹。二十日に三匹。三十日に五匹。今夜、九匹。明日か、あさってには十を超える。
超えた分は、斬れない。光で遅くして、逃げるしかない。動かせる光は、私の左手の一本だけだった。手が、足りなかった。
もう一つ、数えたことがあった。影は、出はじめてから一度も、アリアを狙わなかった。狙うのは、いつも私の右手だった。
千尋さんには言えない。説明したら、千尋さんはまず、私とアリアを病院に連れていく。
私は、ゆずに電話した。十時すぎだった。
「明日、泊まりに来られる?」
ゆずは三秒、黙った。私がゆずを家に呼んだのは、初めてだった。
「……行く。何かあったの」
「見てほしいものがある。言っても、信じないと思う」
ゆずはそれ以上、訊かなかった。昔から、そこから先には入ってこない。
危ない、とは言った。何が危ないのかは、言わなかった。言えば、ゆずは来ないかもしれない。それを分かっていて、言わなかった。
条件をつけた。家の懐中電灯を持ってくること。暗くなったら、それを床に向けて、私の後ろにいること。危なくなったら、私の部屋に入って鍵をかけること。
電話を切ってから、アリアに話した。アリアは少し考えて、「ゆずさんの手は、狙われません。たぶん」と言った。私も、たぶん、としか言えなかった。
土曜日の朝、コンビニで単一の電池を十六本買った。朝まで逃げる夜が来ても、これで二回は替えられる。
二時に、ゆずは来た。リュックに、ナナアリの三巻から十一巻と、ノートを三冊入れていた。
アリアは居間の隅で、正座して頭を下げた。ゆずは「親戚のアリアさん、まだいたんだ」と言って、目を輝かせた。
三時間、居間のテーブルで読んだ。ゆずが年表を開き、私が付箋の場所を言い、ゆずが前後を話した。
昼のうちに、画面を見せて話すつもりだった。父の本の話をするゆずの顔を見ていたら、言い出せなかった。それが間違いだったと分かるのは、一時間後だ。
五時に、ゆずにリュックの懐中電灯を出させた。「上に行く。私の後ろ」と言うと、ゆずは笑いかけて、私の顔を見て、やめた。
影は五時十分に出た。
懐中電灯は、書斎の入口に二本、廊下に一本。私は廊下の奥で左手に一本。ゆずは私の一歩うしろで、自分の家から持ってきた一本を床に向けていた。右手は、ポケットだった。
画面から、犬くらいの黒いものが這い出た。ゆずが息を吸う音がした。
一匹目は、机の下で鳴いた。書斎と廊下の電灯が消えた。アリアの剣が、白く光った。一匹目が煙になった。
「一つ」
二匹目と三匹目は、並んで敷居を越えた。私の右手のほうへ、廊下の壁ぎわを回りこんでくる。私は左手の光を、そっちへ向けた。輪の中で、影の輪郭がぼやけて、遅くなった。アリアが二つ斬った。
「三つ」
うしろで、ゆずの光が揺れた。床から、壁へ。天井へ。
「ゆず、床」
光が床に戻った。四匹目が、その輪の端で止まりかけた。アリアが斬った。
五匹目は、階段の上で鳴いた。階段の電灯が消えた。下の居間の明かりも、一緒に消えた。テレビの音だけが続いていた。
ゆずが、その場に座りこんだ。懐中電灯が手から落ちて、床を転がった。私はそれを足で止めて、床に向け直した。右手は、出さなかった。
ゆずを部屋へ行かせたかった。でも、私の部屋は廊下の先で、影は私の右手とゆずのあいだを回りこんでくる。動かすほうが危なかった。
六匹目から九匹目は、間を空けて一匹ずつ来た。私は光を振って、アリアの前に影を集めた。アリアは一つずつ数えた。
九匹目を斬り終えたのは、五時十八分だった。
「九つ。残りは、一つです」
アリアは剣を鞘に納めた。廊下の電灯が戻った。
ゆずは、まだ廊下に座っていた。眼鏡がずれていた。
「……ドッキリでしょ」
声が裏返っていた。
「プロジェクター? どこ? ことりん、こういうのやる子じゃないでしょ」
私は答えなかった。四週間近く前、私も同じことを考えた。言葉では通じない。
「書斎に来て。見せる」
「ここに打つと、その字のとおりにアリアの体が動く。まず、ゆずが打って。何でもいい」
ゆずは丸椅子に座って、震える指で「ゆずはお茶を飲んだ」と打った。句点を押す前に、字は灰色になって、端から消えた。
「葛西さんのときも、こうだった。今のところ、残せたのは私だけ」
「じゃあ、ことりんが打って動いても、ことりんとアリアさんが二人でやってるのかもしれないじゃん」
正しかった。私でも、同じことを言う。
「だから、ゆずが文を決めて。紙に書いて、私にだけ見せて」
それから、アリアに訊いた。アリアは私の手とキーボードを見て、少し黙った。
「剣と、体を傷つける文でなければ」
「それは私が見て、断る」
アリアは画面に背を向けて、廊下の壁のほうを向いた。四週間近く前、私がアリアにさせたのと同じ立ち方だった。違うのは、今度はアリアが自分で向いたことだけだった。
ゆずは紙を手で隠して、長いこと考えていた。それから書いて、私にだけ見せた。
『アリアは三回まばたきをした。』
害はなかった。私はうなずいた。
「ゆずは、アリアの前に立って。顔を見てて。紙は、裏返して」
ゆずは廊下に出て、アリアと向かい合った。紙を胸に伏せて押さえていた。
声に出さずに打った。句点の前で止まった。
「ゆず、見てる?」
「……見てる」
句点を押した。
ゆずの肩が、びくっと跳ねた。
「いち。に。さん」
ゆずの声が、数えた。数え終わっても、ゆずはアリアの顔から目を離さなかった。十秒、黙って見ていた。
「……四回目、ない」
画面の字は黒いまま、残っていた。
ゆずは紙を握りしめて、床に座った。
「……ほんとなんだ。でも、待って。アリアさんが、本当にあのアリアなの」
しばらくして、ゆずは言った。
「分かんない。証明はできない。私も、まだしてない」
ゆずは私の顔を確かめてから、アリアのほうを向いた。
「出てる巻のことなら、私でも答えられる。ファンなら誰でも。だから、出てないことを言ってください。十二巻の、最後のとこ」
アリアは、ゆずの前に膝をついた。目の高さが、同じになった。
「塔の頂上でした。風が、急にやみました。舞っていた灰が、私の顔の前で止まりました。指でさわれそうな近さでした」
ゆずは黙っていた。
「カイは、何かを叫ぼうとしていました。口を、こう、開けたまま止まりました」
アリアは自分の口を、少しだけ開けて見せた。
「何を叫ぼうとしたのかは、分かりません」
私は、一週間前に一人で読んだ九万字の最後のページを思い出していた。舞い上がる灰。崩れた胸壁。叫ぼうとするカイ。父の字のとおりだった。
「原稿の最後、そう書いてある。でも、私があらかじめ教えたかもしれないって言われたら、それも、証明できない」
ゆずは長いこと、アリアの左の頬の傷を見ていた。それから、眼鏡を外して、手の甲で目をこすった。
「いいよ。ことりんが嘘ついてないって、私が決める」
ゆずの声が崩れた。
「小学生のときから、ずっと読んでたんだよ。アリアさんのこと」
ゆずは泣いた。アリアは、どうしていいか分からない顔で、膝をついたままでいた。
十時に、カーソルを測った。十回で、二十四秒五五。一分に、二十四回。
そのあと、ゆずは私の部屋に布団を敷いた。アリアは客間にいた。私は話せるところまで話した。影が毎晩増えること。カーソルが遅くなること。月末までに、続きを書くかどうか決めなければならないこと。父のメモのことは言わなかった。
ゆずは、天井を見て言った。
「アリアさん、最後は鐘を鳴らすんだよ。鳴らして、死ぬの。ファンはみんな、そう思ってる。『鐘の死』って言うんだよ。一巻のグラムの台詞から、ずっと」
「本には、消える、って書いてある」
「同じ意味でしょ」
言ってから、ゆずは黙った。壁のほうを見た。壁の向こうは客間だった。
「……ごめん。本の話のつもりで、言った」
ゆずは布団をかぶった。しばらくして、鼻をすする音がした。
ゆずにとっては、十年前から同じ意味だった。アリアにとっても。一週間前の私も、六巻で少し引っかかったのに、アリアがエルセンでは同じだと言ったから、それ以上考えなかった。
同じ意味でしょ、と言われて、その引っかかりに、また指が戻った。
ゆずが寝てから、父のメモ帳を開いた。三十日に書き写した三つの文が、そこにあった。横に「灰」と書いてあった。
七つ目の鐘を鳴らしたあとも、アリアはエルセンで生きていた。
七つ目の鐘を鳴らしたあとも、アリアはエルセンでカイと暮らした。
七つ目の鐘を鳴らしても、アリアはこの世界から消えなかった。
一つずつ、掟とぶつかったところに線を引いた。一つ目は「エルセンで」。二つ目も「エルセンで」。三つ目は「この世界から消えなかった」。
三つとも、アリアはエルセンにいた。鐘のあとも、この世界に残っていた。生きていた、とだけ書いた文は、一つもなかった。消えたのは、生きている、のほうではなかったのかもしれない。残っている、のほうだったのかもしれない。
六巻の一行も思い出した。初代の鐘守の姿を見た者は、二度といない。見た者がいない、と書いてあった。死んだ、とは書いてなかった。
それに、アリアは今、ここにいる。あの世界から、消えて。
私はメモ帳に一行書いた。
消える、は、死ぬ、じゃないかもしれない。
その下に、もう一行。
どこに消えるのか。
二十八日まで、十八日あった。