第14話 キャラクターデザイン
2026.10.19
月曜の朝から、私は髪を結ぶたびに、口にくわえたゴムを意識した。
三巻の一行は、アリアの髪の結び方を書いていた。私の結び方と同じだった。偶然かもしれない。髪をまとめるとき紐を口にくわえる人は、たぶんどこにでもいる。
あの人が、私を見て書いたのか。それとも、ただの偶然か。確かめる方法は、思いつかなかった。あの人に訊くことは、もうできない。
月曜の夜、葛西さんから電話が来た。代筆の同意書のことだった。私は返事を先に延ばしてから、訊いた。
「アリアが髪を結ぶとき紐を口にくわえるのって、誰が決めたんですか」
葛西さんは、少し黙った。
「先生や。最初のラフの注文に書いてあってん。ミヤさん、ああイラストの水無月ミヤさんな、その注文どおりに紐くわえてる絵を一枚描いてはって、私それ覚えてんねん。手書きの注文書、ミヤさんがまだ持ってはるはずやで。武蔵境に住んではる。ことりちゃんちから二駅やん」
それから、声を低くした。
「ミヤさんの最初のラフな、あの子にそっくりやねん。前に会うたとき、言われへんかったけど」
十月六日、火曜日。六時間目が終わったのは三時二十分だった。日没は五時十四分。武蔵境まで、自転車と電車で二十分かかる。話せるのは一時間もない。
アリアは駅の改札の前で待っていた。ゴルフバッグを肩にかけて、父の紺のトレーナーを着ていた。
「来なくてもよかったのに」
「私の顔のことです」
アリアはそれだけ言った。それに、日が沈むときに、アリアと別の場所にいるわけにはいかなかった。影が狙うのは、私の手だ。
水無月さんの家は、駅から五分のマンションの三階だった。三十代の半ばくらいの女の人で、髪をクリップで留めて、指にインクがついていた。玄関に、猫が三匹並んで座っていた。
水無月さんはアリアを見て、口を開けた。それから笑った。
「うわ、ラフそのままだ。ナナアリ好きなの? その傷、メイク?」
水無月さんは、玄関でアリアの顔を正面から見て、それから少し横に回った。
「顎の線、どうやって作ってるの。三十二枚目と同じ角度。傷も、左の頬骨の下から斜めに二センチ。私が最初に引いた線のまんま」
アリアは一歩下がった。水無月さんは「ごめん、職業病」と笑った。
アリアは答えなかった。私が「親戚です」と言うと、水無月さんは「そっか、似合うね」とだけ言った。
いちばん大きい灰色の猫が、アリアの足もとに来て、匂いを嗅いだ。アリアは動かなかった。剣の入ったバッグの肩ひもを握ったまま、猫が離れるまで息を止めていた。
「エルセンに、これがいたかどうか、分かりません」
猫が離れてから、アリアが小さい声で私に言った。
「見た覚えがありません。いなかったのか、書かれていないのか、分かりません」
私は何も言えなかった。私も、知らなかった。
仕事部屋の机には、大きな画面が二つあった。水無月さんは棚から古いクリアファイルを出した。
「冬木先生の最初のメモ。十一年前の冬かな。原稿より先に、これが届いたの。先生、ここまで自分で持ってきたんだよ。顔だけは譲れないから、って」
紙は一枚だった。あの人の字だった。鉛筆で、丸い顔の簡単な絵が描いてあった。その周りに、矢印と書きこみ。
――髪、赤銅。長い。一本の三つ編み。
――目、灰色。
――左頬に細い傷。
――背は高い。
私は、そこまでは知っていた。PCの設定メモにも、同じことが書いてあった。
水無月さんは、ファイルの後ろから紙の束を出した。顔の絵が、何十枚も描いてあった。全部、赤い三つ編みで、左の頬に傷があった。目の形と、口の形だけが一枚ずつ違った。
「三十二枚描いて、先生が一枚選んだの。これ」
水無月さんが指したのは、束のいちばん上の一枚だった。アリアの顔だった。
アリアはその一枚を、手に取らなかった。残りの三十一枚のほうを見ていた。
「これを描いたのは、あなたですか」
「そう。私」
「この顔の人たちは、どこにいるのですか」
水無月さんは笑いかけて、アリアの顔を見て、笑うのをやめた。
「……どこにも、いないよ。選ばれなかったから」
アリアは「そうですか」と言った。
私は、あの人の手書きのメモに目を戻した。顔の絵の下に、書きこみが続いていた。
――髪をまとめるとき、紐を口にくわえる。
――(娘がそうする)
私は、その行で止まった。
ゴムを口にくわえて髪を集める。小さいころから、ずっとそうしてきた。母に習ったのか、自分で覚えたのか、覚えていなかった。あの人は、それを見ていた。見ていて、書いた。
紙のいちばん下に、一行だけ、ほかより小さい字があった。
――うちの娘が十七になったら、こんな顔をしていてほしい。
私はその行を、声に出さなかった。
アリアが、私の横から紙を見ていた。ひらがなは読める。漢字は読めない。その行の「うちの」と「が」と「になったら、こんな」と「をしていてほしい」は、読めたはずだった。
「ことりさん」
「……」
「何と、書いてあるのですか」
水無月さんが、私たちの顔を見比べた。それから、ゆっくり読んだ。読めない子のために読んであげる、という声だった。
「うちの娘が十七になったら、こんな顔をしていてほしい。……先生の娘さんって、もしかして」
水無月さんは私を見た。私は、うなずかなかった。
「あ、ごめん。そっか」
水無月さんは紙をファイルに戻しかけて、やめた。
「先生、渡すときに、写真を一枚だけ見せてくれたの。六つくらいの女の子の。娘には似せないでくれって。似せたら娘が嫌がるから、って。だから私、目も鼻も口も、その写真と反対の形にした。三十二枚の中で、いちばん似てないのを先生が選んだの」
水無月さんは私の顔を見て、目を少し細めた。描く人の目だった。
「うん。似てない。似せなかったんだもん。……でも、あの写真の子だね。口の端が同じ」
あの人は娘より、架空の娘を見ていた。私はずっと、そう思ってきた。
その架空の娘の顔を、あの人は、私に似ないように選んだ。紐を口にくわえる癖だけ、私から持っていって。
帰りの電車は、四時四十一分だった。
アリアはドアの横に立って、膝で揺れを受けていた。窓の外を見ていた。
武蔵小金井で降りて、南口の商店街を歩いた。日没まで、二十分あった。
「ことりさん」
八百屋の前で、アリアが言った。
「私は、ことりさんの代わりでしたか」
私は答えなかった。
答えられなかった。違う、と言えば嘘になるかもしれない。そうだ、と言えば、あの人がこの人に何をしたのかを、私が決めることになる。
アリアは、少し黙った。それから、もう一つ訊いた。
「代わりなら、なぜ、死ぬと書いたのですか」
私の足が止まった。
あの人は、娘が十七になったらこんな顔をしていてほしいと書いた。同じ顔に、七つ目の鐘を鳴らして死ぬ、と書いた。どちらも、あの人の字だった。
私には、どちらの答えもなかった。
アリアは、私の答えを待たなかった。
閉店した店のシャッターの横に、まだ明かりのついた写真屋があった。ガラスの戸に、アリアが映っていた。アリアは立ち止まって、それを見た。
左の頬に、手をやった。傷を、指でなぞった。それから、髪の三つ編みの先をつかんで、ガラスの中の自分と見比べるみたいに、少し持ち上げた。
アリアは長いあいだ、そこに立っていた。
私は腕時計を見た。日没まで、十二分。
「行こう」
アリアは、ガラスから目を離さずに、「はい」と言った。それから、歩きだした。
家に着いたのは、日没の四分前だった。書斎の入口に懐中電灯を二本立てた。影は七匹出た。アリアは、一回も、私の顔を見なかった。斬った数は、いつもどおり声に出して数えた。