第13話 十一冊と九万字
2026.10.19
十月二日、金曜日の夜八時。私は一巻の一ページ目を、声に出して読みはじめた。
水曜と木曜の夜は、一人で黙って読んだ。二晩で、一巻の終わりまでしか進まなかった。それでも、最初からアリアに聞かせることにした。約束したのは、週末に声に出すことだった。
アリアは書斎の床に、膝をそろえて座っていた。私は丸椅子。机の上には、本棚から下ろした十一冊が、巻の順に積んであった。
読むのは私で、聞くのはアリアだった。アリアは、ひらがなはもう全部読める。でも本は、ほとんどが漢字だった。
鐘の国エルセンの夜は、長い。一行目を読んだとき、声が少し変になった。先週、頭の中で聞いた声と、同じ文だったからだ。私は咳払いをして、続けた。
一巻を読み終えたのは、夜中の一時だった。五時間かかった。
アリアは、ほとんど口を挟まなかった。挟むときは、短かった。
カイと最初に会った市場の場面で、「この時は、雨でした。本には書いてありますか」。書いてあった。「書いてあるのですね」。アリアはそれだけ言った。
夜鳴きに肩を噛まれる場面で、「この時は痛かったです」。それから、「何日で治ったか、書いてありますか」と訊いた。書いてなかった。次の場面では、もう剣を振っていた。
「私も、覚えていません。痛かったことは、覚えています。いつ治ったのかは、ありません」
アリアは自分の肩に手をやって、すぐに下ろした。
市場から峠までの何日かは、本では二行で済んでいた。アリアはそこで、何も言わなかった。
十一時すぎに、ページをめくる手が止まった。
夜に、床に座って聞いている人に、紙の字を読んでいる。読点で止まって、また読んでいる。あの人が私にしていたことを、私はしていた。
私は、しばらく黙っていた。アリアは何も訊かずに待っていた。
私は、続きを読んだ。
一冊に五時間なら、十一冊で五十五時間かかる。週末は、金曜の夜と、土曜と日曜しかない。
私はゆずにメッセージを送った。「ナナアリの年表みたいなの、ある? 鐘のとこだけでいい」。
一時すぎなのに、三分で返事が来た。「ある!!! 自作の!! え、ことりん読むの???」。そのあとに、表のファイルが二つ来た。年表と、伏線一覧。巻とページまで書いてあった。
「ありがと。あと、三巻の誓いのとこ、文言そのまま分かる?」
「『アリアは生涯この剣を手放さないと誓った』。三巻の二百十二ページ。ことりん、泣くとこ来たら教えてね」
私はスマホを伏せた。
土曜日から、やり方を変えた。
私が黙って読む。ゆずの表で、鐘と掟が出てくるページに先に付箋を立てて、そこを全部読む。アリアが出てくる場面に来たら、そこだけは声に出して読む。
付箋が足りなくなって、昼に二人でコンビニまで行った。アリアはゴルフバッグを肩にかけていた。帰り道、うしろから軽トラックが来て、私たちの横を抜けた。
アリアの手は、バッグのフードに行かなかった。
私が見ているのに気づいて、アリアは「車です」と言った。それだけだった。
声に出して読むのを自分の場面だけにしたのは、アリアがそう頼んだからだ。
「私について書かれたところだけでいいです。全部は、時間がありません」
アリアは、自分の場面を聞きながら、ときどき目を閉じた。三巻の、剣を手放さないと誓う場面。五巻の、グラムが死ぬ場面。グラムの最後の台詞を読むと、アリアは「はい。そう言いました」と言った。それ以上は言わなかった。
懐中電灯は、木曜の夕方に確かめてあった。影が三回鳴いて電灯が全部消えても、四本とも消えなかった。光の輪の中に入った影は、ルクスの光の中と同じように輪郭がぼやけて、遅くなった。アリアは斬りながら、「夜は灯を嫌う。本当です」と言った。
土曜の夕方も、日没の二十分前に書斎の入口に懐中電灯を二本立てた。影は六匹出た。アリアは電池の光の中で遅くなった影を、六回で斬った。私はその間、ポケットの中の右手で、付箋のついた五巻を握っていた。
夜、また読んだ。九巻の、北の谷の場面を声に出して読んだ。帳面のこと。印のない名前のこと。石の前で朝まで座ったこと。アリアが月曜の朝に話したことと、一字一句ではないけれど、全部同じだった。風の向きも、震えた字のことも、書いてあった。
石の前で朝まで座って、アリアが一人で決める。その行で、私の声が止まった。
アリアは床で、膝の上の手を見ていた。私が続きを読むまで、顔を上げなかった。
読み終わると、アリアは「はい」と言った。それから、少しして、「本当に、そう書いてあるのですね」と言った。私はうなずいた。アリアは、それ以上は訊かなかった。
日曜の昼、私は付箋を数えた。四十一枚。
仮説は一つだった。七つ目の鐘を鳴らした者は、この世界から消える。誰かがそれを知っているのは、前に鳴らした者がいるからだ。その誰かが、鳴らしたあとにどこかで生きていたなら、掟には例外がある。
ゆずの年表に、それはあった。六巻。四百年前、初代の鐘守が七つ目の鐘を鳴らした。そのとき夜が明けて、それから四百年、エルセンには朝があった。
六巻の、そのページを読んだ。
『初代の鐘守は鐘を鳴らし、この世界から消えた。その姿を見た者は、二度といない。』
二度と見た者はいない。死んだ、と書いてあるのとは、少し違う気がした。でも、生きていた、ともどこにも書いていなかった。消えるも死ぬも、エルセンでは誰でも同じだと言う、とアリアは言った。私は、それ以上は考えなかった。初代のあとに、七つ目の鐘を鳴らした者は誰もいない。四十一枚の付箋を、全部読み直した。どこにもいなかった。
鳴らしたあとに生きていた、と書いてある人は、付箋の中には一人もいなかった。付箋の外にいるかもしれない。でも、ゆずの表にないなら、たぶんいない。
例外は、見つからなかった。
私はメモ帳の仮説の行に、線を一本引いた。
「だめでしたか」
アリアが訊いた。
「だめだった」
アリアはうなずいた。驚いていなかった。
「十一冊、全部、読んでくださいました」
「全部じゃない。付箋のとこだけ」
「それでも」
アリアはそれ以上言わなかった。
日曜の夜、アリアが私の部屋で寝たあと、私は一人で12.txtを開いた。
一番上までスクロールした。九万字。あの人の、最後の文章だった。
読むのに、四時間かかった。
鐘の塔に着くまでの道。カイが何度も何かを言いかけて、やめる。アリアは前を歩く。塔の階段を、二人で上がる。あの人の文は、一巻よりずっと短かった。一行に一つのことしか書いていなかった。
塔の下の、最後の野営の場面で、私の目が止まった。
『アリアは鍋を火にかけ直し、冷めた夕飯を温めた。カイの分を、先によそった。』
冷蔵庫に貼ってあった「夕飯、温めて」を思い出した。あの人が私に残した、いちばん長い文。あの人は、同じことをここにも書いていた。アリアが、誰かのために、夕飯を温めていた。
私はその行の上に、カーソルを置いたまま、しばらく動かなかった。それから、先を読んだ。
最後の数行は、塔の頂上だった。崩れた胸壁の小石が、風で転がっている。灰が舞っている。ノクスの手が伸びてくる。カイが叫ぼうとする。
「アリアは剣を抜き、」
そこで、あの人の文は終わっていた。
その後ろに、私の文があった。「アリアはくしゃみをした。」「アリアは右手を上げた。」。九万字の最後に、私の二行がくっついていた。
私はしばらく、その三つを見ていた。それから、ファイルを一番下に戻して、画面を消さずに部屋に戻った。
月曜の朝、アリアは私より先に起きていた。
戸の内側で、髪を編んでいた。ゴムを口にくわえて、両手で髪を三つに分けていた。三つ編みの最後まで編むと、ゴムを口から取って巻いた。
私は手に持っていた自分のゴムを、見た。
私も髪を結ぶとき、ゴムを口にくわえる。両手で髪を集めて、結ぶ直前に口から取る。母に習ったのか、自分で覚えたのか、覚えていない。小さいころから、ずっとそうしている。ゆずに「ことりん、それ行儀悪い」と言われたこともある。
三巻に、一行あった。土曜に、声に出して読んだ。
『アリアは紐を口にくわえて、髪をまとめた。』
読んだとき、私は自分の口に手をやりそうになった。やらなかった。
「アリア」
呼んでから、気づいた。
アリアは顔を上げて、少しのあいだ、私を見た。
「はい」
私は言い直さなかった。
「その結び方、誰に習ったの」
アリアは、ゴムを巻いた三つ編みの先に、手をやった。それから、ゆっくり首を横に振った。
「それは、書かれていません」