第12話 灰色の一文
2026.10.19
九月三十日、水曜日。部活を休んで、四時に家に着いた。
月曜の朝から、アリアとはほとんど話していなかった。アリアは夕方になると書斎の入口に立ち、影を斬り、寝るときは戸の内側に座った。ご飯は食べた。おかわりは一回になった。私が何か言いかけると、アリアは待った。私は言わなかった。
二日、考えた。書かなければ、点滅は減りつづける。書けば、メモのとおりならアリアは死ぬ。なら、メモと違うことを書けばいい。あの人がそう決めていたとしても、書くのは私の指だ。月曜の朝、アリアは「試してくださってもかまいません」と言った。
問題は、それが通るかどうかだった。「空を飛んだ」は灰色になった。あの人の本に、エルセンに空を飛ぶ術はない、と書いてあった。でも、本に反したから消えたのか、アリアにもともとできないことだから消えたのか、あのときは分けられなかった。どちらなのかで、書ける文が変わる。試してみないと、分からない。
アリアは私の部屋で、ひらがなを書いていた。「す」と「ず」の違いを、チラシの裏で確かめていた。
「試したいことがある」
アリアは鉛筆を置いた。
「あんたについての文。三つ」
私は父のメモ帳を開いて見せた。読めないのは分かっていた。それでも見せた。
「読むから、聞いて。だめなら、だめって言って」
一つ目を読んだ。二つ目。三つ目。
アリアは最後まで聞いて、少し黙った。
「三つとも、鐘は鳴らすのですね」
「鳴らす。そこは変えてない」
アリアがそこを最初に訊くのは、分かっていた。月曜の朝、この人は「私は鐘を鳴らします」と言った。だから三つとも、鳴らしたあとのことだけを変えた。
「どうぞ」
アリアは言った。
「いいの?」
「掟に反する文は、通りません。試せば、ことりさんも分かります」
アリアの声は静かだった。止めるでもなく、期待するでもない声だった。
書斎の画面は、月曜と同じだった。「アリアは右手を上げた。」の後ろで、カーソルが点滅していた。
アリアは私の右、一歩うしろに立った。背中は向けなかった。何が書かれるのか、もう知っているからだ。
一つ目を打った。
「七つ目の鐘を鳴らしたあとも、アリアはエルセンで生きていた」
句点の前で、手を止めた。私は自分の腕時計を見た。四時十八分。脈は百二。
句点を押した。
一秒。二秒。字の色が、黒から薄くなった。端から崩れて、消えた。
アリアは何も言わなかった。自分の手を見ていた。何も起きていない手だった。
二つ目は、生きていた、をやめた。何をして暮らしたかを書けば、ただ生きていたと書くより、通りやすいかもしれないと思った。
「七つ目の鐘を鳴らしたあとも、アリアはエルセンでカイと暮らした。」
二秒で灰色になった。
アリアの肩が、少しだけ動いた。
三つ目。これは、掟の文にいちばん近く打った。
「七つ目の鐘を鳴らしても、アリアはこの世界から消えなかった。」
すぐに灰色になった。
画面には、元の三つの文とカーソルだけが残った。
「分かりました、か」
アリアが言った。
「……分かった」
私はメモ帳に、三つの文を書き写して、横に「灰」と書いた。
空を飛ぶのと違って、生きていることは、アリアにできないことではない。カイと暮らすことも。それでも三つとも消えた。本に反したからかもしれない。鐘を鳴らしたあとに生きていることが、もともとできないことだからかもしれない。どちらなのか、三つでは分けられなかった。どちらにしても、通らなかった。
一巻の掟。七つ目の鐘を鳴らした者は、この世界から消える。鳴らしたあとも生きていた、と書くと、消える、とぶつかる。鳴らしても消えなかった、と書けば、もっとはっきりぶつかる。そして鳴らせるのは鐘守の血の者だけで、それはアリアしかいない。
鐘を鳴らせば、アリアは消える。消えるとは死ぬことだ、とアリアは言った。エルセンでは誰でもそう言う、と。
確かめたのは、三つの文だけだ。でも、ほかにどう書けばいいのか、私には一つも思いつかなかった。アリアが生き残る結末は、書けない。私はそう思った。
「あの人の本が、塞いでる」
私が言うと、アリアはうなずいた。
「はい。私は最初から、そう申しました」
それから、少し間を置いて、言い足した。
「ことりさんが、試してくださったことは、覚えておきます」
塞いでいるのが本の文なら、穴があるかもしれない。
一巻の掟だけではない。あの人は十一冊と、九万字を書いた。どこかに、掟と違うことが一行でも書いてあれば、それが使える。ないなら、ないと分かる。
調べるには、全部読むしかなかった。
私は本棚を見た。一巻から十一巻まで、白い背表紙が並んでいる。家に来た献本だ。私はこの棚の前を、十一年、素通りしてきた。
「読む」
私が言うと、アリアが本棚を見た。
「全部ですか」
「全部。今夜から。平日は学校があるから、夜に少しずつ。まとめて読むのは週末」
アリアは、本棚と私を、二回見比べた。
「私も、聞きたいです」
私はすぐには答えなかった。あの人の文を、自分の声で読む。それを考えると、喉の奥が硬くなった。
「……声に出すのは、週末。平日は、私が先に黙って読む」
アリアは「はい」と言った。
日没は五時二十四分だった。二十分前に、アリアは書斎の入口に立った。私は一歩うしろの廊下で、右手をポケットに入れた。左手にスマホを持っていた。時間を見るためだった。
影は五時三十一分に出た。五匹だった。
一匹目は、机の下で鳴いた。書斎の電灯と、廊下の電灯が消えた。ルクスの白い光と、画面の光だけになった。アリアは三歩踏みこんで、机の下から出てきた一匹目を斬り、敷居に戻った。
二匹目は、三十ほど数えたところで、敷居の上で鳴いた。電灯は、もう消えている。消すものがない。そう思ったとき、廊下の先の、階段の電灯も消えた。階段の電灯は、敷居から私の歩幅で十二歩。机は、敷居から窓ぎわまで、さらに七歩。机の下からは届かなかった距離が、敷居からなら届いた。アリアは敷居の二匹目を斬った。
暗くなった廊下で、私の左手が明るかった。
スマホの画面だった。時計を出したまま、二回鳴かれても、ついていた。
三匹目が、床を這って私のほうに来た。私はとっさに、スマホのライトをつけて、床に向けた。
影の輪郭が、ぼやけた。動きが、遅くなった。ルクスの光の中にいるときと同じだった。
アリアがそれを斬った。
四匹目が鳴いた。私のライトは消えなかった。
五匹目は、アリアの足もとで斬られた。四匹目は、天井を伝って私の右肩まで来て、アリアの刃に払われた。
「五つ」
アリアが数えた。
廊下の電灯は、六十を少し過ぎて戻った。階段のは、それより三十遅かった。二匹目が鳴いたぶんだけ、遅れていた。
私はスマホを見ていた。画面は、二回の鳴き声で消えなかった。ライトも、四匹目の一回で消えなかった。
電灯は消える。スマホは消えない。電線につながっている灯りと、電池の灯りの違いかもしれない。違うかもしれない。確かめる方法は、一つしかなかった。
これまで、影が出たのは日が沈んだあとの一回だけだった。確かめられるのは、たぶん明日の夕方になる。
「ねえ」
アリアがこっちを見た。
「残り、いくつ」
「五つです」
十のうち、五つ。影は、毎晩増えている。光で遅くできる影が増えれば、アリアが一太刀で斬れる数も、無駄にならずに済む。
その夜、私は家じゅうの懐中電灯を集めた。台所の引き出しに一つ。玄関の靴箱の上に一つ。仏間の押し入れの防災袋に一つ。あの人の机の引き出しの奥に、ペンの形の小さいのが一つ。全部、電池を入れ替えた。四本になった。明日の夕方は、書斎の入口に二本、廊下に一本、私のポケットに一本。
十時に、点滅を測った。十回で、十五秒八八。一分に、三十八回より少し少ない。
メモ帳には、十七晩分の数字が並んでいた。私はそれを方眼の紙に点で打って、定規を当てた。点は、ほとんど一本の線に乗っていた。最初の三晩で引いた線より、幅がずっと狭かった。
線は、十月二十八日の上で、ゼロを切った。前後に一日。
四十九日だった。
十七晩たっても、点は線から外れなかった。減り方が一定なのは、もう疑えなかった。
それが四十九日に重なるのは、偶然かもしれない。三晩目のときも、そう書いた。今も、そうとしか書けない。ただ、ゼロになる日は、もう幅で逃げられなかった。
私は紙に、「10/28 ±1」と書いた。その下に、「残り二十八日」と書いた。
それから、本棚の一巻を抜いて、机に置いた。
戸の内側で、アリアが剣を膝に置いて、こっちを見ていた。