confabulations

未完のヒロイン

第11話 剣士の答え

2026.10.19

二時十四分に目が覚めた。

部屋の戸の内側に、アリアがいなかった。寝るときは戸の内側、と木曜に決めてから、アリアがそこにいなかった夜はない。剣を膝に置いて、壁に背中をつけて座っている。毎晩そうだった。

その場所に、畳んだ毛布だけがあった。

私は窓のカーテンを指で開けた。

庭に、アリアがいた。柿の木の下の、物干し台の踏み石に座っていた。剣は鞘に入ったまま、膝の上に横にしてあった。両手が柄と鞘の先に置いてあった。動いていなかった。

日没後の影は、夕方にもう出たあとだった。夜中に二度出たことは、まだない。それでも、外は暗かった。門灯が一つついているだけだった。

私は下りていかなかった。

下りていって、何を言えばいいのか分からなかった。読んだのは私だった。

カーテンのすきまから見ていた。アリアは三時にも、四時にも、同じ形で座っていた。四時半に一度だけ、柄から右手を離して、左の頬に触った。それから、また柄に戻した。


五時四十分に、空が白くなりはじめた。

私は台所で湯をわかして、マグを二つ持って庭に出た。サンダルが露で冷たかった。

アリアは顔を上げた。目は赤くなかった。泣いた顔ではなかった。眠っていない顔だった。

「ことりさん」

「飲んで」

アリアはマグを受け取って、両手で持った。飲まなかった。

私は物干し台の柱に寄りかかった。座らなかった。座ったら、話を聞く形になる気がした。

「ゆうべの、続きを言います」

アリアは言った。

「七つ目の鐘を鳴らせるのは、鐘守の血を引く者だけです。それは、話しました」

「聞いた」

「鐘守の一族は、北の谷に住んでいました。私が三つのときに、夜鳴きの群れに襲われて、散りぢりになりました。父はそのとき死にました。ほかにも、どこかに生き残りがいると、ずっと思っていました」

私は黙っていた。柳さんの喪失。日野さんへの手紙。掟の一行。ゆうべの、あの一行。並んでいたものの、最後の一つだった。

「谷に、一族の石があります。カイと旅をして、二度目の冬に、そこへ行きました。グラムは鐘守の老人で、私に掟を教えた人です。散った一族を、何年もかけて一人ずつ探して、消息を帳面に書き留めていました。死ぬ前の晩に、私に言いました。帳面は谷の石の下に納めてある、と。鐘守は、死んだ者の記録を一族の石の下に納めます。カイが谷の下の小屋で寝ているあいだに、私は一人で石のところへ行って、帳面を出しました。名前の横に、死んだ年と場所が書いてありました。印のない名前は、一つだけでした。私の名前です」

「そのグラムって人は」

「その前の年に、死にました。帳面の最後に、私がグラムの名前を書き足しました。それで、分かりました。鳴らすのは私です」

アリアはマグを見ていた。

「カイは、帳面を見ていません。鐘守の血の者しか鳴らせないことは、カイも知っています。でも、残っているのが私一人だとは、知りません」

「その夜、私は決めました。石の前で、朝まで座って。七つ目の鐘は私が鳴らす。鳴らして、消える。カイには言わない。言えば、あの人は止めるからです」

「……ゆうべみたいに」

「はい。ゆうべのように、座っていました」

アリアは少し笑いかけて、やめた。

「だから、あの字を聞いても、驚きませんでした。死ぬことは、知っていました。消えるも、死ぬも、エルセンでは同じです。誰でもそう言います」

それなら、なぜ一晩ここにいたのか。私は訊かなかった。アリアが先に言った。

「驚いたのは、そのことではありません」


アリアはマグを踏み石の上に置いて、剣の柄に置いた手を、少し握った。

「あの夜のことを、私は細かく覚えています。風が谷の上から吹いていました。石は冷たくて、帳面は湿っていました。グラムの字は、最後のほうだけ震えていました。夜明けの前に、鳥が一度鳴きました」

アリアは言った。

「細かく覚えている日は、書かれた日です」

私は柱から背中を離した。

それは、木曜の書斎で、私が見当をつけただけで口に出さなかったことだった。

「峠から三日歩いたことは、何も覚えていません。母の名前も、ありません。でも、あの夜は、全部あります。グラムの字の震えまで」

「鳴らすと決めたのは私です」

それから、少し黙った。

「……私だと、思っていました」

露が、サンダルの中まで染みていた。私は足を動かさなかった。

「あの人は、私がそこに座ることを決めて、そう書いたのですか。私が決めたから、あの人が書いたのですか。どちらなのか、私には分かりません。どちらの順番だったとしても、あの夜は、同じに覚えているからです」

アリアは私を見なかった。柿の木の向こうの、白くなった空を見ていた。

「カイの腕の中で、とは、決めていませんでした。私は、一人で鳴らすつもりでした」


六時十分、アリアは立ち上がった。家の中に入って、階段を上がった。私はついていった。

アリアは書斎に入って、父の机の前に立った。12.txtの画面は、まだついていた。末尾の「アリアは右手を上げた。」の後ろで、カーソルが点滅していた。ゆうべより、少し遅い気がした。測っていないから、分からない。

「何するの」

「確かめます」

アリアは右の手のひらを、画面に当てた。

指先が入った。第一関節まで。アリアは息を止めた。私はアリアの手首の横に、自分の手を浮かせた。最初の日のように、引く準備をした。

「冷たいです」

アリアは言った。

「最初の日より、ずっと弱い。でも、まだ、あの風です。止まったままの、塔の上の風です」

アリアは自分で手を抜いた。指先が白くなっていた。左手でその指を握った。

「カイたちは、まだ止まっています。たぶん」

「たぶん、でしょ」

「はい。確かめる方法はありません。でも、この冷たさが全部なくなったら、私はどこにもつながらなくなる気がします。ことりさんが測っている数が、ゼロになるときに」

アリアは私のほうを向いた。

「続きを書いてください。お父上のメモのとおりでかまいません。私は鐘を鳴らします。それで夜が明けるなら」

「は?」

声が、自分で思ったより大きかった。

「何言ってんの。あれ、死ぬって書いてあったんだよ。あんた、それ、今、自分で決めたかどうか分かんないって言ったじゃん」

「言いました」

「じゃあ、なんで」

「分からなくても、カイたちは止まっています」

アリアは言った。

「書かれなければ、カイたちは止まったままです。私がここで生きていても、あの塔の上は止まったままです。結末がないより、ずっといい」

私の脈は、測らなくても速かった。

ゆうべ、私は自分の声で、あの人の一行を読んだ。読んだのは、この人に嘘をつかないためだった。この人に、死ねと渡すためではなかった。

「死ぬために帰るの?」

アリアは答えなかった。白くなった指を、左手で握ったままだった。

「メモと違うこと書けばいいじゃん。鳴らしても死ななかった、って」

「掟があります。七つ目の鐘を鳴らした者は、この世界から消えます。グラムがそう言いました。お父上の本にも、そう書いてあるのでしょう」

「試してないじゃん」

「試してくださってもかまいません」

アリアは言った。

「でも、通らないと思います。空を飛んだ、と同じだと思います。あれも、本に書いてあることに逆らった文でした」

それは、確かめていない。飛べなかったのが、本に反したからなのか、もともとできないからなのか、あのときは分けられなかった。

だから、試すしかなかった。試す、と言いかけて、私は口を閉じた。

定着した文は消せない。もし通ったら、それは消せないこの人の結末になる。鳴らしたあとのことまで、私が今、ここで決めることになる。朝の六時に、寝ていない頭で、それを打つ自信はなかった。

「……書かなきゃ、死なないじゃん」

私は言った。言いながら、それが理屈になっていないのは分かっていた。書かなければ、点滅は減りつづける。影は増えつづける。ゼロになる日に何が起きるのか、誰も知らない。

アリアは、それを言わなかった。私が分かっていることを、アリアは分かっていた。

「ことりさん」

アリアは言った。

「ことりさんは、私に死んでほしくないのですね」

「……当たり前じゃん」

「ありがとうございます」

アリアは頭を下げなかった。私の顔を、まっすぐ見ていた。

「でも、私は、終わりがほしいのです」

腕時計が、六時二十二分を指していた。九時には、千尋さんが夜勤から帰ってくる。

アリアは黙って書斎を出て、私の部屋に入った。戸が閉まる音は、しなかった。

私は父の机の前に、一人で立っていた。画面のカーソルは、点滅していた。

アリアの指が入っていたところに、何の跡も残っていなかった。

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